【物語りVol.203】唯一無二のふたつの魂~豊島翔平(後編)

東芝ブレイブルーパス東京でプレーしたのは、豊島翔平にとって僥倖と言っていいものだった。
東海大学在籍時の彼は、トップリーグにほとんど関心を寄せていなかった。東芝のジャージの色さえも、「実は分からないぐらいだった」のである。
大学から社会人チームへ進む選手の多くは、事前に練習に参加する。チームの雰囲気に触れて、自分に合っているかどうかを確認する。
豊島はと言えば、府中グラウンドへ足を運んだこともなかった。採用担当だった釜澤晋(現在の営業部部長)の言葉に共感して、自らのキャリアを東芝に捧げると決断した。
「釜澤さんから現役時代に日本一になったときに、子供を抱っこしてウイニングランをしたと聞いて。それが、自分のなかでのひとつの夢になりました」

U20日本代表、7人制日本代表の肩書を持って東芝の一員となったが、豊島と同じフルバックは多士済々の集団だった。ラグビーW杯に出場した歴戦の勇士がいて、日本代表キャップ保持者がいた。
「18個上に松田努さん、12個上に立川剛士さんがいて、7つ上に吉田大樹さん、3つ上に宇薄岳央さんもいて。すごいチームに入ってしまったと思いましたけれど、先輩のみなさんはとても優しくて。ポジションを争うライバルとして見たら、もうホントに厳しい環境だったのは確かなんですけど、普段からすごい可愛がってもらいました」
初キャップは加入2年目の開幕戦で獲得した。翌節も11番のジャージを着るが、前半29分で交代している。
「その試合で大ケガをしてしまって、1年間ラグビーができなかったんです。3か月入院して、3度オペをしました。もう一度戻れるのかと、不安になりました。ただ、立川さんが自分と同じケガを経験しながら、当時も第一線でプレーしていたので、復帰を目ざすうえでひとつの支えになりました」

復帰戦は3年目の第2節で、最初のボールタッチでトライを決めることができた。4年目、5年目、6年目もキャップを重ねていくが、シーズンを通して稼働したことはなかった。
ケガとの戦いが、なおも続いていたのである。肩の脱臼や骨折を繰り返した。肉離れにも見舞われた。
「最初の6年間は、ホントにケガだらけでした。オペも何回したか……。あの当時の自分は、まさか15年もやれるなんで想像もできなかったですね」
11年度加入の豊島には、合わせて8人の同期がいた。
「ふたりが引退と退団でチームを離れるんですが、残りの6人全員が同時に出た試合があるんです。2017年の豊田自動織戦なのですが、それも楽しかったというか、嬉しかった思い出のひとつですね」

16年には国際舞台に立った。リオデジャネイロオリンピックの7人制日本代表に選ばれ、ベスト4入りに貢献したのである。
「それなりの結果を残すことができて、帰国してチームへ戻ったときに、みんなが『良かったね、おめでとう』って言ってくれて。それもやっぱり嬉しかったですね」
チームは16年から苦難を味わう。トップリーグの中位から下位をさまよった。
「あの数年間は、なかなか上手くいかなかったですね。そのなかで勝ち取った勝利は、ここ2、3年とは違う喜びを感じさせるものがありました」

トップリーグは2021年シーズンを持って発展的解消へ至り、22年シーズンからジャパンラグビーリーグワンがスタートする。東芝ブレイブルーパス東京は初年度のシーズンにプレーオフ進出の4位へ食い込み、名門復活をアピールした。
翌22-23シーズンは5位に終わるものの、23-24シーズンはレギュラーシーズン2位となり、プレーオフトーナメントを制して14シーズンぶりの日本一に輝いた。11年度に加入した豊島にとって、初めてのタイトルとなった。
「国立競技場での決勝は、メンバーに入れなかったのでスタンドから観ていました。優勝が決まった瞬間はホントに嬉しかったけど、自分が試合に出ていないことが悔しくて」
あの日の自分は、スーツを着ていたのか。それとも、ポロシャツにパンツだったのか。どんな服装だったのか、豊島は覚えていない。それぐらい嬉しくて、それぐらい悔しかった。
翌24-25シーズンは、プレーオフトーナメント準決勝で11番を着けた。決勝は23番を託されたが、グラウンドに立つことはなかった。
「決勝で1分も出ていない悔しさはありましたが、ジャージを着て優勝できたのは嬉しかったですね。子どもたちがグラウンドへ下りてきて、一緒に国立競技場を歩くことができた。釜澤さんが授けてくれた夢が、半分ぐらいは叶ったのかなと」

次こそは、日本一の瞬間をグラウンドで味わう。飢えた思いを胸に秘めた25-26シーズンは、チームも、彼自身も望んだ成績を残せなかった。
そして──。
「これからどうやってラグビーに携わるのか、考えているところです。一番やりたいのは、自分が卒業した北中野中学校と、お世話になった世田谷区の千歳中学校のラグビー部に、何か協力できたらなと」
中学生年代に関わりたいのは、自らのルーツに理由がある。
「中学3年当時の僕は、身長が155センチだったんです。その僕でもこれだけ長くラグビーができた。成長が遅いという理由で、スポーツを諦めてほしくないんですね。身体が小さい子供にも特性はありますし、それに気づくことができれば、スポーツを続ける動機づけになるのでは、と。自分に自信を持つことができるのでは、と思うんです」
成長の早い子どもたちも、置き去りにしない。
「身体の大きい子どもは、そのサイズで勝負できちゃうところがあります。その反面将来必要なラグビーのスキルや判断、アジリティーをおろそかにすることがある。成長速度に関係なく、子どもたちが長くスポーツを楽しめる場、成長できる場を作れたらと。仕事のない日に自分が使える時間で、そんなことができたらと考えています。」

指導者としてリーグワンの舞台に立つ豊島を観たい、と考える関係者やファンもいるのではないだろうか。「いやあ……そういう気持ちは、ないですね」と、ちょっぴり申し訳なさそうに言った。
15年に及ぶ東芝ブレイブルーパス東京でのキャリアには、喜怒哀楽のすべてが詰まっている。好きなラグビーにがむしゃらに取り組んで、気の置けないチームメイトに囲まれて。東芝ブレイブルーパス東京の一員として過ごしてきた時間は、いつだってかけがえのないものだった。
「このチームでラグビーをやることができて、ホントに良かったと思います。他のチームでやりたいと考えたことなんて、一度もなかったですから。先輩も、後輩も、誰もが東芝が好きで。いまならマイケルやまーちゃん(三上)、たかひろ(小川)の背中を見て、若い選手がその思いを受け継いでいくんじゃないかな」
府中事業所でこれまでとは違う種類の汗を流して、週末は妻と子どもたちとの時間を大切にしながら、豊島は自分なりにラグビーと向き合っていく。優しさのなかに芯の強さのある瞳は、東芝ブレイブルーパス東京の未来を見つめている。
(文中敬称略)
(ライター・戸塚啓)





























































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