【物語りVol.154】藤田 タリグ 洋一 通訳

 

 

アイルランド人の父と、日本人の母を持つ。幼少期は大阪で育ち、野球に熱中した。
「甲子園に出てドラフトにかかるんだ、と言っていました」
 ところが、タリグ少年の夢は12歳で書き換えを迫られる。
「父にアイルランドへ留学しなさい、と言われまして。僕、見た目は外国人ですけれど、物心ついた時から日本人の意識で、英語も父親が話していたので6割くらいは理解できる、というレベルでした。やっぱり言葉が心配で、めちゃくちゃ行きたくなかったので必死に抵抗したんですけど……」
 首都ダブリン郊外の『クロンゴウズウッドカレッジ』へ、入学することになった。中高一貫の男子校で、全寮制である。
「ハリーポッターの世界です。校舎はお城で、一階が教室、2、3階が寮でした。アイルランド訛りの英語が聞き取りにくくて、最初は英語ができないのかってバカにされて、めっちゃケンカしてました」
『クロンゴウズウッドカレッジ』は、ラグビーの伝統校として知られる。アイルランド代表として活躍する卒業生も多い。タリグの一学年上には、タイグ・バーンが在籍していた。19年、23年のラグビーワールドカップに出場した33歳のロックだ。
「Ⅰ学年85人ぐらいで、全員がラグビーをやります。AからDまでチームがあって、僕はルールも何も知らないのでDチームからスタートしました。寮生活にだんだんと慣れていって、ラグビーも楽しかったのですが、日本に帰りたい気持ちはずっとありました。両親は大学までダブリンで、と言っていたんですけど、日本の高校や大学のラグビーを録画したものも送ってもらって、それを観ているうちに日本でラグビーをやりたい、と強く思うようになったんです」

 

 

日本の学期で高校2年になる一か月ほど前に、タリグは帰国する。中学から高校へ進学するタイミングでなく、新学期が始まる4月でもなかったのは、両親の希望を叶えたいという気持ちと自分の意思の間で、葛藤を繰り返したからだった。
「アイルランドでラグビーをやっていたということで、いくつかの高校から勧誘されました。そのなかから大阪桐蔭高校を選んだのですが、最初はめちゃくちゃ苦労しました。向こうよりも明らかにレベルが高いし、ラグビーのスタイルが違う。ぬかるんだ芝生から土の硬いグラウンドに変わったのも大変でした」
 アイルランドでは週4回で1回1時間だった練習は、週6回の2時間半である。編入から半年で、83キロだった体重は75キロまで落ちた。
「めちゃくちゃキツかったですけど、楽しかったですね。アイルランドではフルバックとかスタンドオフをやっていて、キックが得意だったんですけど、身体も張るようになりました。周りと同じことができないと、認めてもらえないですからね」
 3年時は花園の舞台に立ち、3回戦で優勝した東福岡高校に敗れた。タリグ自身は専門誌に取り上げられるなど、注目の存在となる。関東のラグビー強豪校への進学を希望したが、家庭の事情もあり大阪体育大学でラグビーを続けることを選んだ。
「特待生で唯一呼んでくれたのが大体大だったんです。関東の大学でやりたかったという気持ちを引きずって、ちょっと腐っちゃいました。練習をサボってばかりで、公式戦の出場は2試合だけです。ただ、ラグビーを嫌いになったわけじゃなかったので、4年生の春に合同トライアウトを受けました」

 

 

 

 

トップリーガー発掘プロジェクトと呼ばれるトライアウトで、複数のチームから興味を示された。しかし、チーム関係者が足を運んでくれた練習試合に、ウォームアップ中のケガで出場できなかった。練習に真面目に取り組んでいなかったこともあり、タリグの知らないところで大学の関係者が断りを入れてしまうという事態も起こった。
「自分の傲慢さが大変なことを招いたんですが、何とか宗像サニックスが取ってくれて。でも、傲慢さを引きずってしまいました。努力が足りなかったし、もっとやっておくべきだったと思います。15-16から3シーズン在籍して、もう契約はしませんと」
宗像サニックスブルースでは通訳を兼ねており、その経験を生かして18年度は豊田自動織機シャトルズに練習生兼通訳として雇用された。チームには通訳がふたりおり、タリグはメインの通訳に指名された。「ケガをされたら困る」との理由で、練習生の肩書は外されることとなった。
豊田自動織機には1年在籍し、19年度、20年度はNTTドコモレッドハリケーンズの通訳となった。タリグはまだ、現役への未練を断ち切れていない。通訳という仕事を、全うできないのである。
「織機でもドコモでも、選手にむちゃくちゃ暴言を吐いていました。『やりたくてもやれないヤツがいるんだぞ、やれるチャンスがあるのにやる気がないんやったらオレと変われ』って」
 結末は、見えている。レッドハリケーンズとの契約は、2シーズンで打ち切りとなった。関西のチームに通訳採用の有無を問合せたが、どこも埋まっていた。タリグは兄が経営する人材派遣会社で、働くことになる。
「その間もラグビーが大好きなので、テレビとかで観ていましたし、クラブチームでプレーもしていました。離れたことをすごく後悔しました」

 

 

 

シーズンが終わるたびに、ラグビー界への復帰を探ってきた。チャンスが巡ってきたのは24年、後輩のつながりから東芝ブレイブルーパス東京との縁を得る。3年ぶりにラグビー界へ戻ることができたのだった。
「ラグビーから離れている間に、自分の立場をわきまえるようになりました。選手に寄り添って、練習相手にもなります」
 通訳の仕事には、やり甲斐を感じている。東芝ブレイブルーパス東京で、長く仕事をしたいと願う。
「通訳はチームの大事なところに、すべて関わります。選手はポジションによって知らない部分があるかもしれないけれど、僕は通訳として間に入るので、すべてに触れることになります。色々な理解が高まって面白いですし、コーチの研修をさせてもらっているようなものですよね。ラグビーに長く関わっていけるために、コーチとしても働けるようになりたい、という希望もあります」
 もう二度と、ラグビー界から離れたくない。好きなラグビーとともに、人生を過ごしていきたい。妻と子どもを幸せにしたい。
 そのためにもいまは、通訳の仕事に専心する。「外国人選手が安心してプレーできる環境を作れたら」との思いを、自身の言葉と行動に編み込んでいる。

 

(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)

 

 

 


【連載企画】東芝ブレイブルーパス東京 「物語り」
・物語り一覧はこちら

 

次戦はプレーオフ準決勝として、5/24(土)に秩父宮ラグビー場にてコベルコ神戸スティーラーズと対戦します。

会場を赤く染めていただき、皆さまの熱いご声援をよろしくお願いします!!

関連リンク

LINK

パートナー

PARTNER

このページのトップへ