【物語りVol.50】濵村 裕之 ハイパフォーマンスアナリスト

 日本ラグビー界におけるアナリストの泰斗、と言っていいだろう。
東芝ブレイブルーパス東京で、『ハイパフォーマンスアナリスト』の職にあたる濵村裕之だ。
ヘッドコーチでもポジションごとのコーチでもなく、アナリストになったのは、現役時代の経験と絶妙な巡り合わせに基づく。

 プレーヤーとしての履歴は控え目だ。スクラムハーフとしてボールを追いかけた大阪府立三島高校も、龍谷大学も、全国的な強豪校ではない。大学卒業後はヤマハ発動機(現静岡ブルーレヴズ)に入社するが、濵村の現役当時は関西社会人リーグに属していた。
「当時のヤマハはまだまだ若いチームで、トップリーグ入りを目ざしているチームでしたので、自分たちの経験だけでやっていたようなところがありました。僕自身が高校、大学を含めて強豪チームに属していたわけではなかったので、2001年3月に現役を辞めるにあたっては、もっとラグビーを学びたかったなと感じました」

 学習意欲が旺盛だった濵村は、引退直後の4月からヤマハのテクニカルコーチとなる。アナリストとしてのプロローグだ。
「その当時はアナリストという役職はなく、テクニカルコーチの呼びかたをしていました。ビデオを使って選手の技術向上などをしていたのですが、どちらかと言えばコーチに近い立場でした」
 自チームと対戦相手の分析を担当した。濵村の仕事はパフォーマンスの向上を促し、チームは関西社会人Aリーグ優勝を勝ち取った。

 アナリストの肩書で仕事を始めたのは、03年7月を起点とする。ヤマハからの派遣という立場で、ニュージーランドNPC(国内選手権)ディビジョン1のノースハーバーのアナリストになった。
「ニュージーランドではアナリストという仕事が始まっていましたので、そういうなかへ入らせてもらったのは大きかったですね。自分に自信が持てるもの、自分の経歴にプラスになるものとして、アナリストはまい進するのに十分な仕事でした」
 アナリストという仕事は「始まっていた」ものの、先行する者はまだ少なかった。舗装されてない隘路を、懐中電灯を持たずに進むようなものだっただろう。
「フィジカルとかメディカルは、学問としてある程度バックグラウンドがありますが、アナリストは教科書も何もない世界です。自分でやってみて失敗して、またやってみて、を繰り返すしかない。僕が渡航した当時は、日本でも海外でも自分たちがやっていることをオープンにしないことも多かったんです。そのなかでニュージーランドは、比較的オープンに色々なことを話してくれて、トップレベルのコーチの話を聞いたりしながら自分の知識を増やしたり、自分で検証してみたりしました」

 向学心に燃える濵村の姿勢は、スーパーラグビーのブルーズで働くことにつながる。労を惜しまない丁寧な仕事を積み重ねていくと、キャリアアップの道が開けた。ノースハーバーとブルーズから、雇用契約のオファーを受けるのだ。
 濵村はヤマハを退職し、現地で仕事を続けることを選ぶ。ブルーズでは04年1月から06年5月まで、3シーズンにわたってアナリストを務めた。スーパーラグビーのチームで日本人がアナリストに指名されたのは、初めてのことだった。
「これは自信になりました。どこから来たのかも分からないような日本人を、受け入れてくれたのはありがたいことでした。仕事をしながら信頼を得て、そこからまた分析する項目を増やしてデータベースをアップデートしていく、といったことができて、スキルアップにつながったと思います」

 その後は日本とオーストラリアで、アナリストやヘッドコーチの職に就いた。ニュージーランドを舞台とした11年のW杯には、日本代表にアナリストとして帯同した。国内外で様々な経験を積むなかで、東芝ブレイブルーパス東京とのつながりも生まれていく。
「最初のご縁は、U20W杯で薫田GMとご一緒したことです。11年のW杯には東芝ブレイブルーパスの選手が多く選ばれていましたので、そこでもつながりが生まれました。お世話になることになった直接的なきっかけは、13年に秩父宮で行なわれたセブンズワールドシリーズです」
 濵村はオーストラリアセブンズ代表のハイパフォーマンスアナリストをしており、大会後に参加国が集うパーティーで日本代表ヘッドコーチに出会う。東芝ブレイブルーパス東京出身の瀬川智広だった。
「瀬川さんがセブンズをもっともと勉強したいと仰っていたので、オーストラリアのセブンズ代表のキャンプを見るのはどうですかと言ったら、ホンマに来られたんです。その間に色々な話をさせてもらいまして。16年のリオ五輪が終わって瀬川さんが東芝ブレイブルーパスへ戻った後に、僕も誘っていただきました」

 アナリストの仕事は、区切りを見つけにくい。あるテーマを突き詰めようと思えば、どこまでも掘り下げることができる。「自分で区切らない限りは、エンドレスで調べられますね」と濵村も笑うが、シーズン中は「時間」という区切りに沿って仕事を進めている。
「一週間の大まかな動きとしては、試合後2、3日は自分たちのパフォーマンスの分析。それが終わったら次の対戦相手の分析。週末にその対戦相手に対してのミーティングをして、次の日に試合があり、また自分たちの分析へ、という感じです。そのなかに、練習の分析がついてきます」

 日々の仕事に倦むことはない。東芝ブレイブルーパス東京というチームへの忠誠心が、濵村の情熱に火を灯す。
「これまで色々なチームを見てきましたが、こんなチームは初めてです。他のチームがダメだったというわけではないのですが、シンプルに素晴らしい人間が集まっている。みんながチームを助けようとして、チームのために動く。難しい場面でもどうにかやろうとして、またそこでひとつになる。こんな人たちは、見たことがないですね」

 ラグビーに限らずスポーツが文化として根づくには、職業として関われる人を増やすのが不可欠だ。分かりやすく言えば、そのジャンルで「飯が食える人」を増やすのである。日本ラグビー界のアナリストの第一人者である濵村は、その意味で大きな責任を背負っていると言える。
「自分が第一人者だと、自信を持って言えるようにならないといけないですね。この仕事をやりたい人が増えたら嬉しいですし、やりたい人に自分の経験を伝えるようなことができれば、と。自分のやりかたが正しいのかどうかも分からない世界で、こうして20年以上も経験させてもらってきたので、僕みたいに無名の人間でもラグビーに恩返しができたらありがたいですね」

 濵村の足跡は、後進の道標だ。その存在は、羅針盤や灯台にもたとえられるだろう。唯一無二と言っていいキャリアを築いてきた男が、東芝ブレイブルーパス東京を支えている。

(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)


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