【物語りVol.58】PR 藤野 佑磨

 藤野佑磨の周りには、チームメイトが自然と集まる。オフザフィールドでは、彼を中心に微笑みが広がる。チームに重苦しい雰囲気が忍び寄っていても、この27歳がいることで空気が解れていくのだ。
「たくさんの人の中心でワイワイやるのが、小さい頃から好きでした。中学校では生徒会長をやりました。僕の学年ではお前しかおらん、みたいなことをみんなが言ってくれまして」
 小学校1年で楕円球に触れた。父が地元の兵庫県に本拠地を置くワールドで、ラグビーをしていたことがきっかけだった。
 小学校、中学校と競技を続け、高校では強豪校で自分を試してみたいと考えた。兵庫県最多の花園出場を誇る報徳学園へ入学する。
「1年生の時はスタートで、2年生はリザーブでした。入学して半年ぐらいはロックを希望していたんですが、コーチから『藤野はプロップがいい』と言われまして」
 2年時と3年時に花園に出場し、3年時は3番を着けた。高校日本代表候補にも選ばれ、立命館大学へ進んだ。
 ここで、藤野は壁にぶつかる。
「1年生のときはリザーブで、2年、3年はAチームの公式戦にほとんど出られませんでした。リザーブかBチームでした」
 最終学年になった藤野は、トップリーグ入りを前提に合同トライアウトに臨んだ。コーチのツテを頼り、数チームの練習にも参加させてもらった。しかし、前向きな反応は得られなかった。
 どこからも声がかからなければ、ラグビーを続けることはできない。並行して就職活動に動いた。内定をひとつ受けたところで、もう一度ラグビーにフォーカスした。梅雨前線がゆっくりと北上していく6月、東芝ブレイブルーパス東京の練習に参加したのである。
「東芝の選手だった高山国哲さんが、僕が2年生のときにバックスコーチだったんです。『東芝はラグビーに全力で、オフザフィールドでも全力で楽しむ。選手同士の仲がよくて、ホンマにいいチームだぞ』と聞いていました。実際に練習参加させてもらって、それは一番に感じました。東芝と言えばFWが強いチームですから、このなかでやれたらな、と思いました」
 東芝ブレイブルーパス東京への思いは募ったが、練習参加で手応えを感じることはできなかった。コンタクトの練習が多くなかったこともあり、自身の持ち味を見せることができなかったのだ。

 関西地方に梅雨明けの便りが届いても、連絡がなかった。真夏の日差しを浴びながら練習をしていた頃に、ようやく連絡が届いた。
「東芝がダメなら、大学ですべて出し切って引退しようと考えていました。そんな自分を拾っていただいたことは、間違いなく人生の分岐点になりました」
 自分を迎え入れてくれた東芝ブレイブルーパス東京のために、少しでも早くチームの戦力ならなければいけない。気持ちは嫌でも前のめりになる。ところが、加入から間もない時期に足に雑菌が入り、入院生活を余儀なくされてしまう。退院後もチームの練習に参加できない日々が続いた。
 行き先を失った意欲が、本人の気持ちとかけ離れたものに変質していく。選手としても人間としても、未熟さを露呈してしまった。
 そんなときだった。
 寮で一緒に過ごす先輩たちが、助言をしてくれた。
「普通ならオフザフィールドで、僕を突き放してもいいと思うんです。でも、(現採用担当の)東口(剛士)さんとか、がんてさん(金寛泰)、シューゾーさん(松岡久善)、(中尾)隼太さんといった方々が、すごく親身に指導してくれました。僕が色々な助言をすぐに受け入れられなくて、『でもそれは……』と反論しても、辛抱強く寄り添ってくれました。それを1年間通してやってくれまして、ホンマに素晴らしい環境やなあと思わずにいられませんでした」

 フィールド外では、3年目に転機を迎える。
「1年目、2年目と試合に少し出ていたのですが、充実感をまったくと言っていいほど得ることができていませんでした。2年目が終わって次のシーズンへ向かうときに、(アシスタントコーチだった)湯原さんから『いまはプロップの3番やけど、サイズもあるし、自信があるなら、1番でチャレンジしてみないか』と言ってくださいまして」
 湯原祐希さんとは、1年目に同じ選手としてプレーした。2年目は選手とアシスタントコーチに立場が変わったものの、距離感はほぼ変わらなかった。
「湯原さんは僕が何かを言わなくても、雰囲気とか練習を見て察してくれて、『どうだ?』みたいな声掛けをしてくれていました。ホントに信頼していましたので、その湯原さんが言ってくれるなら1番にチャレンジしてみよう、と思ったんです」
 新型コロナウイルスによるリーグ戦の中止も挟んで、21年4月のトップリーグで加入後初めて1番を着けた。2試合連続でスタートに名を連ね、チームは連勝を飾った。
「スクラムで悩んだこともありましまたけど、少しずつチャンスがめぐってきて、試合に出られるようになっていきました。ずっと3番でやっていたら、もしかしたら試合に出られなかったかもしれないし、引退していたかもしれない。湯原さんの『チャレンジしてみないか』の言葉があって、自分自身もチャレンジしようという思いがあって、いまがあります」

 リーグワン初年度の2022シーズンは、開幕節から1番を着けた。スタートよりリザーブが多かったものの、シーズンを通して試合に絡むことができた。東芝ブレイブルーパス東京加入後最多の14試合に出場した。
「僕が一番言いたいのは、東芝ブレイブルーパス東京でラグビーができることに感謝していて、誇りを感じている、ということです。もちろん試合に出ることが一番の目標ですが、それ以上にこの大好きなチームで信頼を得たい。藤野がいるなら大丈夫だ、安心できるな、と思ってもらえるように頑張っていきたい」
 プロップでは三上正貴、金寛泰に次ぐ在籍年数となった。チーム全体を見渡しても、後輩が増えている。
「僕は拾ってもらった選手ですが、ドラフト1位でどこにでも入れたような後輩もいます。『ユウマさん、何言ってんやろ』と思われながらでも、僕がやってもらったことは後輩たちへつないでいきたい。余計なお節介もあるかもしれないけれど、ラグビーでも人間関係でもコミットしていくのが東芝らしさなのかなあ、と。お互いが人として好きで、関係性が深いからこそ、一緒にラグビーをしたいと思えるんですよね」
 チームきってのムードメーカーは、「いじられキャラ」の立場を自覚し、「チームがしんどいときに、グラウンド内外でみんなを鼓舞できる存在になりたい」と話す。強くて、しなやかで、逞しくて、清々しい男の瞳は、いつだって明るく輝いている。

(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)

【連載企画】東芝ブレイブルーパス東京 「物語り」
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