【物語りVol.59】HO 大内 真

 大内真の現役生活は、あと5年で幕を閉じる。
 あくまでも、予定だが。
「実家がお寺なので、30歳でそちらの道へ進むと決めています」
 中学卒業と同時に、親元を離れた。将来有望な選手がラグビーの名門高校へ進むのは珍しい話でないが、地元の広島県や周辺の県にも強豪校はある。そのなかで、彼は山梨県へ向かった。
「父親が日本代表だったので、気がついたときには当たり前のようにラグビーをやっていました。ラグビーは好きだったのですが、『お父さんのようになれ』と周りから言われるのが嫌で、ニュージーランドへ行きたかったんです。でも、両親からは高校は日本に居てほしいと言われまして、いくつかの選択肢のなかで一番練習がキツそうな日川高校を選びました。東芝の大先輩にあたる梶原宏之さんがラグビー部の顧問だったのも、選んだ理由のひとつでした」
 2年時と3年時に花園に出場し、3年時にはナンバー8のポジションで高校日本代表候補にセレクトされた。関東の有力大学から声がかかるが、大内の心は惹かれない。
「普通に大学へ行くのは全然面白い人生じゃないなと思って、ニュージーランドへ行ってラグビーがしたいと両親に相談しました。僕は長男で、お寺を継ぐことが決まっているので、快く送り出してくれました」
 ニュージーランドには2年半滞在した。最初の1年半は語学学校に通い、次の1年間はワイカト・パスウェイズ大学に籍を置いた。
「そのあとに豊田自動織機からオファーをいただいて、19年のシーズン開幕直前に加入しました。ところが、入って一か月も経たないうちに、頸椎をケガして手術をすることになりました」
 練習試合でジャッカルをした瞬間に、相手の身体が首に刺さった。右半身が動かなくなり、15分ほどで戻ったものの、身体の一部は正常な機能を失っていた。翌日に病院で握力を測ると、わずか8キロしかなかった。

 プロ契約を結んでいた大内は、社員なら残ることができるとチーム側から提案された。しかし、およそ2か月の入院生活を終えても、身体のあちらこちらに違和感が残った。実家のある広島へ戻った。
 バキッと音がするぐらいに、心が折れていた。引っ越し業者や英語の通訳のアルバイトをしていたが、表情からは感情が抜け落ちていたのだろう。母は「ラグビーだけが人生じゃないよ」と励ましてくれた。息子を愛するがゆえの言葉だということは、大内も分かっている。それでも、虚空を眺めることしかできなかった。
 日本代表のナンバーエイトだった父は、ラグビーをやめろとは言わなかった。さりげなく、本当にさりげなく、復帰へ向けて背中を押してくれた。夜明けや夕暮れに走りにいく息子に、「トレーニングはどこでやるんだ?」と問いかけたのだった。
「妹が通っていた隣町の空手の先生が、『ただでジムを使っていいし、一緒にトレーニングをしてもいいよ』と言ってくれたんです。おかげで実家に戻ってから1年半ほど、竹原シ―ライオンズというチームに混ぜてもらいました。それ以外にも、極真空手の広島県支部の小田さんが、いつでもジムを使っていいと言ってくれました。両親があちこちに根回しをしてくれたと思いますが、そういう人たちに会わなかったら、僕はもう死んだも同然でした。だからこそ、お世話になった人たちに、恩返しをしたいんです」
 トップレベルから1年半遠ざかるなかで、大内は在阪のチームのトライアウトに臨んだ。
 走れなかった。動けなかった。ベンチプレスを上げられなかった。ニュージーランドのチーフスU20でプレーしていた当時の自分とは、あまりにもかけ離れている。
 トライアウトには落ちた。受かるはずがなかった。
 ラグビー人生はもう終わりだ、と大内は覚悟した。
「でも、そのあとに、東芝ブレイブルーパス東京が声をかけてくれたんです。僧侶の資格取得の合宿が2週間後にあったので、勉強をしながらトライアウトに臨んで、最後の最後で拾ってもらいました」

 2020年度の新加入選手として、大内は東芝ブレイブルーパス東京に加入した。シーズン開幕を控えたプレシーズンマッチで起用された。大学4年からポジションを変え、フッカーになっている。
 ここで、膨らみかけていた希望が崩れ落ちた。
「最初のコンタクトで、首に違和感がバーンとあって。実際は何ともないんですけど、ケガがフラッシュバックしちゃって……。3歳で始めてから1年半もラグビーから離れたことはなかったので、怖すぎてというか」
 恐怖という嵐が、大内の身体のなかで吹き荒れた。頸椎をケガした当時の両親の涙を思い出し、「もう一度ケガをしたら、もうラグビーはできないよ」というドクターの宣告が耳の奥で反響する。
 まったくと言っていいほど、タックルにいけなかった。
 トッド・ブラックアダーHCからは、厳しい口調で叱責された。それでも、最後まで使ってくれた。
 尊敬するリーチ マイケルが、「しんなら絶対に大丈夫だ」と激励してくれた。
 同期の伊藤鐘平、佐々木剛、杉山優平、眞野泰地、桑山淳生、宮上廉が、全体練習後に自主練習に付き合ってくれた。厳しい言葉で奮起を促してくれた。
 幼なじみでチームメイトの眞壁照男は、いつでも話を聞いてくれた。空き時間のほとんどを、眞壁の部屋で過ごした。
「色々な人に支えてもらって、入団して1年経ったぐらいから、ようやく身体が戻ってきました。ベンチプレスとかの数値が良くなってきて、それによって心の余裕も生まれて。2年目の22年シーズンはスタートからも出させてもらいました。恩返しというか、このチームのためにという思いがあります」

 感謝の思いにもみくちゃにされる日々だ。
「ホントにありがたいです。ラグビーができているのが素直に嬉しくて。このチームは家族です。ラグビーは犠牲のスポーツですが、プロが多いと他人のために頑張るのが難しくなりがちです。でも、東芝ブレイブルーパス東京には、この人たちのためにやりたい、と思える人間が揃っている。横も縦もつながりがすごい。マイケルさんとか德さん(德永祥尭)は、何気ないときに『今日は良かったよ』とラインをくれたりするんです」
 感謝を伝えられていない人もいる。
「薫田GMと父は日本代表で一緒でしたし、親のおかげでいまここに居られるところも、ゼロではないと思っているんです。父は縁と言いますが、ホントに色々な人に助けられていまがある。どこへ行っても『大内さんの息子』と言われるので、いつかは父が『大内真の父』と呼ばれるようにしたいんです。母にも、妹と弟にも、心配をかけました。家族全員に感謝を伝えたいですね」
 もうひとり、名前をあげたい人がいる。
「ニュージーランドに住んでいた3年間、夏休みだけリコーブラックラムズ東京の練習生にさせてもらったんです。そこで、森雄基さんにフッカーのプレーを付きっ切りで教えてもらいました。頸椎のケガでまともにラグビーができなかった間も、練習メニューを送ってもらいまして。22年4月のリーグワンでBR東京と対戦した試合は、僕も森さんもスタートで東芝が勝ち、僕はプレーヤー・オブ・ザ・マッチに選ばれました。僕のことをずっと気にかけてくれていた森さんに恩返しができたような気がして、この日は試合前も試合中も試合後も、ずっと泣いてました」

 父からは「30歳でやめるように」とは言われていない。ただ、30歳でいったん立ち止まるつもりだ。父も「まだまだできる」と言われながら引退し、家業を継いでいる。
 だからこそ、大内は日々の練習に情熱を注ぐのだ。一瞬たりとも無駄にしないのである。
「東芝じゃなかったら、僕はもうラグビーをやめています。このチームがめっちゃ好きです。東芝で優勝して、みんなで喜び合いたいんです」
 野心が照れくさそうに光った。

(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)


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