原田 衛 | HO
MAMORU HARADA
ニックネーム | アザラシ |
---|---|
生年月日 | 1999/4/15 |
身長(cm) / 体重(kg) | 175cm / 101kg |
足のサイズ(cm) | 28cm |
出身地 | 兵庫県 |
星座 | おひつじ座 |
血液型 | O型 |
略歴 | 桐蔭学園 慶應義塾大学 |
代表歴 | ジュニアジャパン U20日本代表 高校日本代表 |
在籍年数 | 2 |
原田 衛の物語
原田衛は「努力の人」である。
「父親が厳しい人で、努力をすることが僕のなかでは当たり前でした。努力して結果が出るサイクルを覚えてしまったというか、努力しないと結果が出ないと分かっていったので、嫌でしたけれどやるしかないかなと。中学や高校当時はそれが何なのかを言語化できていなくて、とにかくやっていましたが、成功体験が積み重なって習慣化されていった、という感じです」
兵庫県伊丹市で生まれたが、中学から神奈川県の名門私学の桐蔭学園で学んだ。もちろん一般受験である。
「関西の私立中学校の受験にのきなみ落ちてしまい、地元の公立中学へ行こうと思っていたら、関東のほうが受験の時期が少し遅かったので、父が『受けてみたらどうだ』と。父は単身赴任で東京に住んでいたので、受かったら厳しい父とふたりで暮らすことになるので、実はそれもしんどいなと思っていたのですが……」
5歳からラグビーに親しんでいた。中学でもラグビーをやりたい希望はあったから、強豪校の桐蔭への進学は悪くなかっただろう。豊かな才能はしっかりと育まれていき、高校では1年生から試合に出場し、高校日本代表に名を連ねた。
厳しい練習を重ねながら、勉強にも励んだ。難関国公立大学と医学部への進学に対応した特進クラスで机に向かった。自宅での予習復習も欠かさなかった。
「父親には朝6時から30分、数学を勉強するように言われていました。夜は帰宅したら1時間半勉強して、22時に寝なきゃいけない。父には食べる、寝る、勉強、ラグビー、しかないよ、と言われていました」
ところが、大学進学に失敗してしまうのである。
「AO入試で受験した大学にすべて落ちてしまって。その時点では、ラグビーをやめるつもりでした。機会に恵まれなかったから、もういいかと」
予備校に通って1年後に備え始めると、父親に言われた。
「大学では自分がやりたいことをやってほしい」
自分がやりたいことは何か。思いつくものは、ひとつしかなかった。
「やりたいことはラグビーしかない、ラグビーで生きていきたいと父に話して、それなら早く動いたほうがいいとなって、慶応は9月入学があるので、そこから勉強をして入学しました」
慶応でも実戦経験を重ね、U20日本代表に選出された。4年時には主将を任され、チームの先頭に立つ。複数の社会人チームから誘いを受けたなかで、迷わず東芝ブレイブルーパス東京を選んだ。
「どこでラグビーをやりたいかを考えたときに、人との関係性で成り立ってくるスポーツで、一番心があるというか。どうしてもプロスポーツになると、自分さえ良ければいいみたいな感じが出てしまうところがあるかと思うんですが、ブレイブルーパスは練習生で来た僕に教えてくれて、寄り添ってくれて、受け入れてくれました。チームのためにというのがないと、やっていて楽しくないですし、強くならないし、それが一番あるのがブレイブルーパスかなと感じまして、このチームでやりたいと。競争はしっかりあるんですけど、一番思いやりがあると感じたんです」
幼少期の記憶も、東芝ブレイブルーパス東京入りを後押しした。
「トップリーグで3連覇した当時に、東芝ブレイブルーパス対サントリーサンゴリアスの試合をテレビで観て、父親と一緒に応援した思い出があります。選手たちが格好良かったんですよね」
東芝ブレイブルーパス東京では加入直後の2022シーズン終盤に、リザーブで公式戦初出場を果たした。22-23シーズンは、開幕節からフロントローの一角を担っている。
フッカーの先輩にあたる森太志は、慶応大学在学時に練習参加した原田の姿に衝撃を受けたという。選手としてのクオリティはもちろん、オフ・ザ・ピッチでの意識の高さに目を奪われた。
「1か月ぐらいウチで練習していたのですが、24時間のうち18時間ぐらいクラブハウスで練習をしていて。自分の社会人1年目に比べると、自分を客観視できていて、何が必要か、どんなトレーニングが必要なのかが、明確になっている。こんな選手は見たことが無いぐらい。すごいなという印象を、最初から受けていました」
原田の朝は早い。5時に起床して自室でストレッチし、6時45分から朝食を摂り、クラブハウスへ向かう。森の話は決して大げさではない。同期加入の木村星南も、「アイツがおるから自分も頑張れてる。メチャメチャ練習するんで、オレもやらなあかんと思っています」と話す。
原田自身にとっては、無理のないルーティンである。
「学生時代に毎日勉強していたことが、いまはラグビーの練習に変わったという感覚なので。僕自身は、全然苦ではないんです」
原田衛というラガーマンは、丁寧な努力を重ねてきたものが持つ我慢強さと謙虚さを感じさせる。その生きざまは、これからも変わることはないのだろう。
原田衛は、いつだって「努力の人」なのだ。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
「父親が厳しい人で、努力をすることが僕のなかでは当たり前でした。努力して結果が出るサイクルを覚えてしまったというか、努力しないと結果が出ないと分かっていったので、嫌でしたけれどやるしかないかなと。中学や高校当時はそれが何なのかを言語化できていなくて、とにかくやっていましたが、成功体験が積み重なって習慣化されていった、という感じです」
兵庫県伊丹市で生まれたが、中学から神奈川県の名門私学の桐蔭学園で学んだ。もちろん一般受験である。
「関西の私立中学校の受験にのきなみ落ちてしまい、地元の公立中学へ行こうと思っていたら、関東のほうが受験の時期が少し遅かったので、父が『受けてみたらどうだ』と。父は単身赴任で東京に住んでいたので、受かったら厳しい父とふたりで暮らすことになるので、実はそれもしんどいなと思っていたのですが……」
5歳からラグビーに親しんでいた。中学でもラグビーをやりたい希望はあったから、強豪校の桐蔭への進学は悪くなかっただろう。豊かな才能はしっかりと育まれていき、高校では1年生から試合に出場し、高校日本代表に名を連ねた。
厳しい練習を重ねながら、勉強にも励んだ。難関国公立大学と医学部への進学に対応した特進クラスで机に向かった。自宅での予習復習も欠かさなかった。
「父親には朝6時から30分、数学を勉強するように言われていました。夜は帰宅したら1時間半勉強して、22時に寝なきゃいけない。父には食べる、寝る、勉強、ラグビー、しかないよ、と言われていました」
ところが、大学進学に失敗してしまうのである。
「AO入試で受験した大学にすべて落ちてしまって。その時点では、ラグビーをやめるつもりでした。機会に恵まれなかったから、もういいかと」
予備校に通って1年後に備え始めると、父親に言われた。
「大学では自分がやりたいことをやってほしい」
自分がやりたいことは何か。思いつくものは、ひとつしかなかった。
「やりたいことはラグビーしかない、ラグビーで生きていきたいと父に話して、それなら早く動いたほうがいいとなって、慶応は9月入学があるので、そこから勉強をして入学しました」
慶応でも実戦経験を重ね、U20日本代表に選出された。4年時には主将を任され、チームの先頭に立つ。複数の社会人チームから誘いを受けたなかで、迷わず東芝ブレイブルーパス東京を選んだ。
「どこでラグビーをやりたいかを考えたときに、人との関係性で成り立ってくるスポーツで、一番心があるというか。どうしてもプロスポーツになると、自分さえ良ければいいみたいな感じが出てしまうところがあるかと思うんですが、ブレイブルーパスは練習生で来た僕に教えてくれて、寄り添ってくれて、受け入れてくれました。チームのためにというのがないと、やっていて楽しくないですし、強くならないし、それが一番あるのがブレイブルーパスかなと感じまして、このチームでやりたいと。競争はしっかりあるんですけど、一番思いやりがあると感じたんです」
幼少期の記憶も、東芝ブレイブルーパス東京入りを後押しした。
「トップリーグで3連覇した当時に、東芝ブレイブルーパス対サントリーサンゴリアスの試合をテレビで観て、父親と一緒に応援した思い出があります。選手たちが格好良かったんですよね」
東芝ブレイブルーパス東京では加入直後の2022シーズン終盤に、リザーブで公式戦初出場を果たした。22-23シーズンは、開幕節からフロントローの一角を担っている。
フッカーの先輩にあたる森太志は、慶応大学在学時に練習参加した原田の姿に衝撃を受けたという。選手としてのクオリティはもちろん、オフ・ザ・ピッチでの意識の高さに目を奪われた。
「1か月ぐらいウチで練習していたのですが、24時間のうち18時間ぐらいクラブハウスで練習をしていて。自分の社会人1年目に比べると、自分を客観視できていて、何が必要か、どんなトレーニングが必要なのかが、明確になっている。こんな選手は見たことが無いぐらい。すごいなという印象を、最初から受けていました」
原田の朝は早い。5時に起床して自室でストレッチし、6時45分から朝食を摂り、クラブハウスへ向かう。森の話は決して大げさではない。同期加入の木村星南も、「アイツがおるから自分も頑張れてる。メチャメチャ練習するんで、オレもやらなあかんと思っています」と話す。
原田自身にとっては、無理のないルーティンである。
「学生時代に毎日勉強していたことが、いまはラグビーの練習に変わったという感覚なので。僕自身は、全然苦ではないんです」
原田衛というラガーマンは、丁寧な努力を重ねてきたものが持つ我慢強さと謙虚さを感じさせる。その生きざまは、これからも変わることはないのだろう。
原田衛は、いつだって「努力の人」なのだ。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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