高城 勝一 | LO
SHOICHI TAKAGI
ニックネーム | ジャニー |
---|---|
生年月日 | 1998/6/29 |
身長(cm) / 体重(kg) | 196cm / 101kg |
出身地 | 大阪府 |
星座 | かに座 |
血液型 | O型 |
略歴 | 汎愛高校摂南大学 |
代表歴 | - |
在籍年数 | 3 |
高城 勝一の物語
※この物語は2022-2023シーズンにインタビューした内容です
大阪府立汎愛高校入学と同時に、ラグビーを始めた。高城勝一自身の意思ではなく、かなり強引に引き込まれた。
「入学式の日に校門をくぐったら、いきなり呼び止められたんです」
すでに190センチのサイズがあった新入生に、生徒指導をしているラグビー部の顧問が目をつけた。「高校ではアルバイトをして普通に過ごそう」と思っていた高城からすると、「目をつけられてしまった」という感覚だったかもしれない。
「バスケットボール部からも誘われたんですが、どっちもやりたくなくて。でも、ラグビー部の顧問の宮畑先生がいつも教室の前で待っていて、勝手に入部届を出されちゃったんです」
汎愛高校のラグビー部は、強豪校ではない。部員も20人に満たないほどだった。ただ、府立高校として立派な筋トレルームがあった。「身体を鍛えたかった」という高城は、熱心に器具と向き合っていく。
「宮畑先生がオール大阪という選抜チームの選手選考に関わっていて、2年生のときに大阪桐蔭などの強豪の選手たちと一緒にプレーする機会を得ました。そのときに、ラグビーって面白いなと思ったんです」
高校卒業後は、摂南大学でラグビーを続ける。転機が訪れたのは3年時だ。ラガーマンとしてのキャリアが上昇カーブを描く出会いを得た。
「東芝ブレイブルーパスのOBで監督もやられた瀬川智広さんが、スポットコーチになったんです。当時の僕はラグビーを全然分かっていなかったのですが、この人は違うなと感じました。先輩たちは『やっとラグビーができる』と言っていました」
試合に出たいとの欲求が、高城の胸中で膨らんでいく。チームの練習に加えて、個人でウエイトトレーニングに取り組んだ。6番のジャージを託されるようになり、東芝ブレイブルーパス東京から練習参加の打診が届いた。
「3年のリーグ戦が終わって、冬休みに1週間ぐらい参加させてもらいました。スピード感、身体のデカさ、集中力、ピリピリとした感じ。すべてが違ったので、人生のいい思い出になったぐらいの気持ちでした。母親は『リーチ マイケルがいるチームじゃない!』と喜んでくれましたが、このチームに入るなんて絶対に無理やろと思いました」
それでも、東芝ブレイブルーパス東京で採用を担当する望月雄太が、継続的に試合を観に来てくれた。4年時は4番や5番を着け、大型ロックとして存在感を発揮する。ワーナー・ディアンズや小鍜治悠太、松永拓朗らとともに、東芝ブレイブルーパス東京の21年度の新加入選手に名を連ねることになった。
「ウチは母子家庭の4人兄弟で、おかんは朝、昼、夜とずっと働いていて、ほとんど顔を合わせない時期もありました。だから、僕の加入に嬉し泣きをするおかんをみたときは、嬉しかったですね」
加入1年目の21年シーズンは、心身ともに厳しい時間を過ごした。プレシーズンマッチから、ほぼ出場機会を得られなかった。先輩たちとのレベルの差に愕然として、練習に前向きに取り組めないこともあった。ラグビーがうまくいかないから、メンタルが充実しない。ホームシックになった。
「摂南大学でお世話になった瀬川さんには、東芝はホントにいいチームだから2年間もがき続けてこい。2年やってダメだと思ったら、諦めて大阪に帰ってこいと言われました。採用担当のもっちんさんからも、2年やってダメだったら社員に徹すればいい。大阪に帰りたければ帰ってもいい、と言われました。実際に帰ろうと思ったこともありましたけど、時間が経つにつれて、このチームで出たい。何としても残りたい。やり続けたい。そう思うようになりました」
加入2年目の22-23シーズンは、プレシーズンマッチにも多く出場した。リーグワン12節終了時点でキャップを獲得していないが、いつでも試合に出られると思えるぐらいの練習を積んできた。
「大学までは身長でどうにかできたんです。南アフリカ代表ロックのエベン・エツベスとかを見て、自分もそうなりたいと思っていましたが、かじさんと一緒にプレシーズンマッチに出させてもらい、ラック際とかFW周りの安心感、ワークレートの高さを間近で見て、目標が変わりました」
かじさんこと梶川喬介から得る刺激、森太志からもらった言葉、さらには東芝ブレイブルーパス東京の偉大なOBの残像を、高城は抱懐する。目ざすべき選手像が、くっきりと輪郭を帯びていった。
「日本人のロックに求められるのは、大野均さんやかじさんみたいに愚直に身体を当て続ける。チームがしんどい時間帯でも、ボールに絡み続ける。タックルしたら起き上がってチームのために身体を張ることだと思うんです。太志さんに言われた『ロックは痛がっちゃダメだ、一番身体を張れるヤツがロックだ』というのも心に残っています。197センチのこの身長で、かじさんみたいなプレーをすれば、チャンスは来るだろうと思っています」
22年12月からは、リーチ マイケルとふたりで練習をしている。アフターと呼ばれる全体練習後の個別練習で、パートナーを組ませてもらっているのだ。
「若手がマイケルさんの家に呼ばれて食事をしたときに、『マイケルさんみたいなプレーをするにはどうしたらいいですか』と聞いたら、『明日から一緒にやるぞ』と。翌日の練習終了後にホントに声をかけてもらいまして、火曜と木曜の激しい練習のあとにやっています」
40数名の選手が在籍しているなかで、試合のメンバーはおよそ半分の23人だ。試合に絡めない日々を過ごしていくなかで、高城は東芝ブレイブルーパス東京に息づく精神性に目覚める。あるべき姿を見つけることができている。
「試合に出られなくて腐る選手が、ここにはひとりもいません。腐らずにやれば絶対にチャンスは来る。チャンスをもらったときに逃さないために、自分なりにもがいて、あがいて、いま自信がついてきています。あとは、チャンスが来れば」
チャンスをつかめたら、届けたい感謝の思いがある。
「母にも兄弟にも、瀬川さんにも、もっちんさんにも感謝を伝えたいのですが、汎愛高校で宮畑先生に会わなかったら、きっと僕は平凡な毎日を過ごしていた。東芝ブレイブルーパス東京でキャップを取ったら、いままでの感謝を伝えたいんです」
高校入学時に宮畑先生に言われた言葉は、いまも熱血として高城の身体で沸き立っている。
「ラグビーで人生を変えたくないか」
東芝ブレイブルーパス東京の歴史に、誰にも負けないぐらいの足跡を記していく。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
大阪府立汎愛高校入学と同時に、ラグビーを始めた。高城勝一自身の意思ではなく、かなり強引に引き込まれた。
「入学式の日に校門をくぐったら、いきなり呼び止められたんです」
すでに190センチのサイズがあった新入生に、生徒指導をしているラグビー部の顧問が目をつけた。「高校ではアルバイトをして普通に過ごそう」と思っていた高城からすると、「目をつけられてしまった」という感覚だったかもしれない。
「バスケットボール部からも誘われたんですが、どっちもやりたくなくて。でも、ラグビー部の顧問の宮畑先生がいつも教室の前で待っていて、勝手に入部届を出されちゃったんです」
汎愛高校のラグビー部は、強豪校ではない。部員も20人に満たないほどだった。ただ、府立高校として立派な筋トレルームがあった。「身体を鍛えたかった」という高城は、熱心に器具と向き合っていく。
「宮畑先生がオール大阪という選抜チームの選手選考に関わっていて、2年生のときに大阪桐蔭などの強豪の選手たちと一緒にプレーする機会を得ました。そのときに、ラグビーって面白いなと思ったんです」
高校卒業後は、摂南大学でラグビーを続ける。転機が訪れたのは3年時だ。ラガーマンとしてのキャリアが上昇カーブを描く出会いを得た。
「東芝ブレイブルーパスのOBで監督もやられた瀬川智広さんが、スポットコーチになったんです。当時の僕はラグビーを全然分かっていなかったのですが、この人は違うなと感じました。先輩たちは『やっとラグビーができる』と言っていました」
試合に出たいとの欲求が、高城の胸中で膨らんでいく。チームの練習に加えて、個人でウエイトトレーニングに取り組んだ。6番のジャージを託されるようになり、東芝ブレイブルーパス東京から練習参加の打診が届いた。
「3年のリーグ戦が終わって、冬休みに1週間ぐらい参加させてもらいました。スピード感、身体のデカさ、集中力、ピリピリとした感じ。すべてが違ったので、人生のいい思い出になったぐらいの気持ちでした。母親は『リーチ マイケルがいるチームじゃない!』と喜んでくれましたが、このチームに入るなんて絶対に無理やろと思いました」
それでも、東芝ブレイブルーパス東京で採用を担当する望月雄太が、継続的に試合を観に来てくれた。4年時は4番や5番を着け、大型ロックとして存在感を発揮する。ワーナー・ディアンズや小鍜治悠太、松永拓朗らとともに、東芝ブレイブルーパス東京の21年度の新加入選手に名を連ねることになった。
「ウチは母子家庭の4人兄弟で、おかんは朝、昼、夜とずっと働いていて、ほとんど顔を合わせない時期もありました。だから、僕の加入に嬉し泣きをするおかんをみたときは、嬉しかったですね」
加入1年目の21年シーズンは、心身ともに厳しい時間を過ごした。プレシーズンマッチから、ほぼ出場機会を得られなかった。先輩たちとのレベルの差に愕然として、練習に前向きに取り組めないこともあった。ラグビーがうまくいかないから、メンタルが充実しない。ホームシックになった。
「摂南大学でお世話になった瀬川さんには、東芝はホントにいいチームだから2年間もがき続けてこい。2年やってダメだと思ったら、諦めて大阪に帰ってこいと言われました。採用担当のもっちんさんからも、2年やってダメだったら社員に徹すればいい。大阪に帰りたければ帰ってもいい、と言われました。実際に帰ろうと思ったこともありましたけど、時間が経つにつれて、このチームで出たい。何としても残りたい。やり続けたい。そう思うようになりました」
加入2年目の22-23シーズンは、プレシーズンマッチにも多く出場した。リーグワン12節終了時点でキャップを獲得していないが、いつでも試合に出られると思えるぐらいの練習を積んできた。
「大学までは身長でどうにかできたんです。南アフリカ代表ロックのエベン・エツベスとかを見て、自分もそうなりたいと思っていましたが、かじさんと一緒にプレシーズンマッチに出させてもらい、ラック際とかFW周りの安心感、ワークレートの高さを間近で見て、目標が変わりました」
かじさんこと梶川喬介から得る刺激、森太志からもらった言葉、さらには東芝ブレイブルーパス東京の偉大なOBの残像を、高城は抱懐する。目ざすべき選手像が、くっきりと輪郭を帯びていった。
「日本人のロックに求められるのは、大野均さんやかじさんみたいに愚直に身体を当て続ける。チームがしんどい時間帯でも、ボールに絡み続ける。タックルしたら起き上がってチームのために身体を張ることだと思うんです。太志さんに言われた『ロックは痛がっちゃダメだ、一番身体を張れるヤツがロックだ』というのも心に残っています。197センチのこの身長で、かじさんみたいなプレーをすれば、チャンスは来るだろうと思っています」
22年12月からは、リーチ マイケルとふたりで練習をしている。アフターと呼ばれる全体練習後の個別練習で、パートナーを組ませてもらっているのだ。
「若手がマイケルさんの家に呼ばれて食事をしたときに、『マイケルさんみたいなプレーをするにはどうしたらいいですか』と聞いたら、『明日から一緒にやるぞ』と。翌日の練習終了後にホントに声をかけてもらいまして、火曜と木曜の激しい練習のあとにやっています」
40数名の選手が在籍しているなかで、試合のメンバーはおよそ半分の23人だ。試合に絡めない日々を過ごしていくなかで、高城は東芝ブレイブルーパス東京に息づく精神性に目覚める。あるべき姿を見つけることができている。
「試合に出られなくて腐る選手が、ここにはひとりもいません。腐らずにやれば絶対にチャンスは来る。チャンスをもらったときに逃さないために、自分なりにもがいて、あがいて、いま自信がついてきています。あとは、チャンスが来れば」
チャンスをつかめたら、届けたい感謝の思いがある。
「母にも兄弟にも、瀬川さんにも、もっちんさんにも感謝を伝えたいのですが、汎愛高校で宮畑先生に会わなかったら、きっと僕は平凡な毎日を過ごしていた。東芝ブレイブルーパス東京でキャップを取ったら、いままでの感謝を伝えたいんです」
高校入学時に宮畑先生に言われた言葉は、いまも熱血として高城の身体で沸き立っている。
「ラグビーで人生を変えたくないか」
東芝ブレイブルーパス東京の歴史に、誰にも負けないぐらいの足跡を記していく。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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