髙橋 昴平 | SH

KOHEI TAKAHASHI

髙橋 昴平
髙橋 昴平
ニックネーム こうへい
生年月日 1996/4/12
身長(cm) / 体重(kg) 167cm / 80kg
足のサイズ(cm) 27cm
出身地 長崎県
星座 おひつじ座
血液型 A型
略歴 長崎南山高校専修大学
代表歴 -
在籍年数 5

髙橋 昴平物語

※この物語は2022-2023シーズンにインタビューした内容です

 スクラムハーフとしての髙橋昴平は、強気なプレーが持ち味だ。コンタクトプレーにもタフだ。
 オフザフィールドでは、印象が変わる。優しそうな声で話し、顔立ちもソフトだ。暖色系のオーラをまとうのは、3人兄弟の末っ子ということが関係しているかもしれない。
「5歳上の兄がラグビーをやっていて、僕は4歳ぐらいからボールに触っていたと思います。地元の時津ラグビースクールに入って、すごく熱心なおじいさんのコーチが指導をしてくれました」
 中学生になると、隣町の長与ヤングラガーズにチームを変えた。高橋の地元でラグビーに取り組む子どもたちは、ほとんどが同じルート辿っていた。
全国大会に出場したが、1回戦で敗れた。長崎県選抜の一員として出場した大会も、1回戦負けに終わった。
「どっちもすごく悔しかったんです。ただ、当時はまだちょっと、何となくラグビーをやっていたところはありました」
 高校は長崎南山へ進んだ。チームは1年時と2年時に県予選を勝ち抜き、花園のピッチに立つ。高橋は2年時にリザーブで出場機会を得た。
 3年時はキャプテンに指名された。3年連続の花園出場を期待されたが、県予選の決勝戦で敗れてしまう。高校の3年間は、どこか満たされないままに終わった。
 小さい頃から胸のなかで育んできた夢が、髙橋にはあった。その夢を叶えることから逆算して、大学を選んだ。
「九州の大学でやることも考えたんですが、トップリーグのチームに入りたいという夢がありました。そのためには、東京の大学へ行ったほうがアピールのチャンスがあるだろう、と考えました。そこで、兄も通った専修大学へ行くことにしました」

 専修大学は関東大学ラグビーのリーグ戦グループに属する。髙橋が入学した2015年シーズンは、2部から1部へ復帰した1年目だった。
「専修には色々なレベルの人がいました。そのなかでレベルアップしていくには、自分自身が高い意識を持たなければいけない。それで、個人練習をたくさんするようになりました」
 僥倖にも巡り合った。髙橋昂平というラガーマンの進むべき道を、決定づける出会いだったと言ってもいいだろう。
「監督がスクラムハーフ出身の村田亙さんで、ご自身も練習に参加するタイプだったんです。いいお手本として間近で見ながら、日々刺激を受けていました」
 村田は東芝ブレイブルーパス東京のOBであり、W杯に3度出場したトッププレーヤーだった。日本人初のプロ契約選手として、フランスのクラブに足跡を残した。インターナショナルのレベルを知る指導者に出会い、伸びしろたっぷりの才能は成長のアクセルを踏み込んでいった。
「チームは僕が1年時にまた2部へ落ちてしまい、2年時は1部に戻れずに3年を迎えました。僕自身は3年から試合に出るようになっていくんですが、それは自分の強みがうまくフィットしたからでした。身体の強みを特徴にしていたのですが、なかなか生かし切れていなかったんです。けれど、3年から自分の強みになると明確に理解できて、けっこうイケるなと。ボール持ったら強い、9人目のFWみたいなことも言われて、当たり負けもしなかった。リーグ戦グループの2部というのはあったと思うんですが、自分の強みを生かしたらチームも自分も良くなっていって、また2部から1部に復帰することができました」
 1部に復帰した大学4年時は、入れ替え戦を戦ったすえに残留を勝ち取った。キャプテンを任されていた髙橋は最低限の責任を果たし、専修大学を卒業した。
「最初はトップリーグの違うチームがいいかなとも思ったんですが、そちらは僕が希望していた関東のチームではなく、『新加入選手は決まっている』とのことでした。そんなことがあったなかで、村田監督を通じて東芝ブレイブルーパス東京さんに練習参加させてもらい、ぜひ来てほしいと言ってもらいました。自分が過ごしてきた高校や大学と比較して、全員がものすごい熱量でラグビーに取り組んでいることが、とにもかくにもすごいなと感じました」

 加入1年目の2019年シーズンから、試合に絡んでいる。どちらかと言えばリザーブが多いものの、どのシーズンもプレータイムを刻んできた。言いかたを変えると、試合には出ているもののスタートをつかみ取れていない、ということになる。
「いまの自分には、まだ何か足りない気がします。それが何なのか……そうですね、僕のなかでは、たかさん(小川高廣)の存在がやっぱり大きくて、東芝で長年やってきている人ですから、違う形で越えていかないと僕自身は開花しないと思っています。スクラムハーフの選手はみんな仲が良くて切磋琢磨していますが、選手としても人間としても尊敬できるたかさんを越えないと、自分は変わらない。たかさんができることは全部やらないといけないし、それにプラスして自分の強みを出す。ホントにお手本ですが、越えなければいけない存在です」
 実家のある長崎県から、母が試合に駆けつけてくれる。都合のつく試合は、東京まで足を運んでくれている。
「僕自身ははっきりとした記憶がないのですが、3歳のときに父が亡くなったんです。そこから母は、兄、姉、僕の3人をひとりで育ててくれました。パートをふたつぐらいかけ持ちをして、僕たち3人を私立の高校に通わせてくれました。自分が社会人になって思うのですが、3人に好きなことをさせてくれた母はすごいな、と。兄も父親代わりみたいに接してくれて、東芝ブレイブルーパス東京に入ることが決まったときは、めっちゃ喜んでくれました。姉も応援してくれています。家族の存在を普段からものすごく意識しているわけではないのですが、僕にとって支えになっているのは間違いないです」

 専修大学から東芝ブレイブルーパス東京へ加入した選手は、村田と髙橋だけではない。ただ、スクラムハーフの選手となると、村田と伊藤譲、それに髙橋の3人に絞られる。そして、ふたりの先達は日本代表のジャージに袖を通した。
「村田さん、伊藤さんと、脈々と受け継がれているものがありますからね。専修から東芝へ行ったスクラムハーフは、日本代表に入るんだろうと言われたりもします。とにかく試合に出ることで、現状を打破したい。一つひとつの練習のなかで、たかさんをはじめとした試合に出ているスクラムハーフを潰すぐらいの勢いじゃないと、僕は出られない。一つひとつの練習を、大切にしていきます」
 忍耐強く、辛抱強く、自らの可能性を信じて。
髙橋は自らを奮い立たせている。

(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)

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