山川 力優 | PR
RIKYU YAMAKAWA
生年月日 | 1997/5/4 |
---|---|
身長(cm) / 体重(kg) | 175cm / 113kg |
出身地 | 大阪府 |
在籍年数 | 2 |
山川 力優の物語
名前の「力優」は「りきゅう」と読む。そのとおりに力強くて優しい。さらに言えば、しなやかで吸収力豊かな心の持ち主である。
大阪府大阪市出身で、中学生までは野球をやっていた。強打のキャッチャーは強豪校から誘われるほどだったが、中学校の先生にラグビー選手としての将来性を見出され、奈良県の名門・天理高校に進学した。
「僕の人生で最初のターニングポイントです。天理高校は白いジャージが人気で、それを着たくてみんな入ってくるんですけど、僕はジャージの色をまったく知りませんでした」
スタートラインは後方でも、頭角を現わすのは早かった。天理高校では1年時からプロップのポジションをつかむ。3年時には高校日本代表候補にリストアップされている。
天理大学でも試合に絡んだ。U20日本代表にも選出された。ラグビー選手として確実に歩んでいく一方で、大学2年から3年にかけて胸を押し潰されるような経験をした。
「中学生からの知り合いで、高校、大学も一緒だった野球部の友だちが亡くなったんです。ホントに突然でした」
それからおよそ半年後、山川は大東文化大学との大学選手権準々決勝に臨む。14時キックオフの試合を控えた朝に、祖父がこの世を去った。
「一緒に暮らしていて、メッチャ好きでした。祖父はいつも『何かひとつ頑張ったれ。そうすれば道は開ける』と言っていて、それが自分のなかでの大事な言葉になっていました」
亡くなる直前に、電話で話した。祖父が「力優の声が聞きたい」と言ってくれた。試合にはリザーブに入り、最終盤に出場した。
「試合には出ましたけど、試合前と試合後は、ずっと泣いてました」
およそ半年の間に、友人と祖父を亡くした。それだけでなく、小学校当時の野球のコーチまで他界してしまった。心にぽっかりと穴が空いて、猛烈な風が吹きつけていた。
「その時期は毎日、毎日、寝られへんぐらい悩んで、生きてるってどういう意味なんだろう、死ぬときって運命で決まっているんだろう、と深入りして考えてしまって」
足元がいつもふわふわと頼りなく、地面や床を突き抜けて虚空へ落ちてしまいそうな感覚だったかもしれない。底知れぬ悲しみが胸に押し寄せるなかで、山川は自分なりの答えを出す。
「あれこれと考えても何も変わらないから、いまを生きるしかない。いまその瞬間を頑張る、目の前のことをやり遂げる、それがホンマに大事だなと思いました。人生を悔いなく生きたろう、一瞬を生きたろうと」
天理大学を卒業した山川は、地元の大阪に本拠を置くNTTドコモレッドハリケーンズ(現NTTドコモレッドハリケーンズ大阪)に加入した。ところが、リーグワン初年度を終えた22年5月、ドコモはNTTコミュニケーションズシャイニングアークス東京ベイ浦安と再編され、社員選手を中心にディビジョン3から再スタートすることが発表される。
「大阪に家族がいる選手以外は、ディビジョン1だった浦安へ行きたいという希望を出していたんです。でも、行けたのは数人で、僕もダメでした。大阪に残ってドコモで続けるか、移籍するか、メッチャ迷いました。どうせやるなら高いレベルでやりたくて、移籍志望を出しました。出したらもうドコモには戻れないけど、それでもいいと思って。いまを生きるために、プロに転向しようと」
どこからも誘われなかったら、ラグビーを辞めるつもりだった。ドコモで社員として働く覚悟を固めていた。それだけに、東芝ブレイブルーパス東京のトライアウトを受けられることが決まった瞬間は、深い安堵と歓喜に包まれた。
「高校生からブレイブルーパスのラグビーがめっちゃ好きで。FWのチームのイメージがあって、ユハさん(湯原祐希)とかを見ていました。選手たちの熱さが見ていて分かるチームで、自分の性格に合うなと思っていました。練習参加して、もう絶対に入りたいと思いました」
22年8月に東芝ブレイブルーパス東京の一員となった山川は、22-23シーズンの開幕戦で初キャップを獲得した。22年シーズンはドコモで1試合も出られなかった男が、加入早々に東芝ブレイブルーパス東京のユニフォームを着てピッチに立ったのである。
「みんながおめでとうと言ってくれて、試合が終わったあともロッカーでお祝いしてくれて。ホンマにこのチームに入れて良かったな、と思いましたね。前のシーズンは全然出ていない自分がディビジョン1で出ているので、知り合いみんなにびっくりされました。このチームの雰囲気があって、自分の成長がある。たくさんの人のおかげでこんな素敵なチームにいて、こんな素敵なコーチと選手に囲まれて。めちゃくちゃ感謝しています、ホンマに感謝しかないです」
東芝ブレイブルーパス東京のチームカラーにすぐに溶け込めたのは、山川が大学時に経験したあの痛みを、チームのスタッフと選手の多くも経験しているからかもしれない。湯原祐希さんの急逝という悲しみを。
「大切な人が亡くなったときに、僕と同じことを考えたんじゃないかな、と思うんです。だからこのチームの人たちと、深いところでつながれるのかなって。僕以外にもいろんな思いを持っている人がおって、そういう思いが強い人が集まってくるのかなと、入って思いました。僕はこのチームがホンマに大好きです。このチームで日本一になりたい。それまでは引退したくないです」
いまを全力で生きることを誓う山川には、ラグビーに魂を注ぐ理由がもうひとつある。高校でも大学でも周囲には伝えてこなかったが、「自分のことを知ってもらうために」と明かしてくれた。
「妹が発達障害なんです。その妹が、僕の影響でラグビーを好きになってくれて、実家に帰ると笑顔で『お帰り』と言ってくれる。僕がしっかりやらないと、そんだけハマってるラグビーを妹は見られなくなる。それは僕が頑張らなきゃいけない理由です。かなり大きな理由です」
飾り気のない言葉は、聞き手の胸に一直線に突き刺さる。そして、山川をもっと知りたいと思うのではないだろうか。
いまを逞しく生きるこの男のプレーをスタジアムで観たい、と。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
大阪府大阪市出身で、中学生までは野球をやっていた。強打のキャッチャーは強豪校から誘われるほどだったが、中学校の先生にラグビー選手としての将来性を見出され、奈良県の名門・天理高校に進学した。
「僕の人生で最初のターニングポイントです。天理高校は白いジャージが人気で、それを着たくてみんな入ってくるんですけど、僕はジャージの色をまったく知りませんでした」
スタートラインは後方でも、頭角を現わすのは早かった。天理高校では1年時からプロップのポジションをつかむ。3年時には高校日本代表候補にリストアップされている。
天理大学でも試合に絡んだ。U20日本代表にも選出された。ラグビー選手として確実に歩んでいく一方で、大学2年から3年にかけて胸を押し潰されるような経験をした。
「中学生からの知り合いで、高校、大学も一緒だった野球部の友だちが亡くなったんです。ホントに突然でした」
それからおよそ半年後、山川は大東文化大学との大学選手権準々決勝に臨む。14時キックオフの試合を控えた朝に、祖父がこの世を去った。
「一緒に暮らしていて、メッチャ好きでした。祖父はいつも『何かひとつ頑張ったれ。そうすれば道は開ける』と言っていて、それが自分のなかでの大事な言葉になっていました」
亡くなる直前に、電話で話した。祖父が「力優の声が聞きたい」と言ってくれた。試合にはリザーブに入り、最終盤に出場した。
「試合には出ましたけど、試合前と試合後は、ずっと泣いてました」
およそ半年の間に、友人と祖父を亡くした。それだけでなく、小学校当時の野球のコーチまで他界してしまった。心にぽっかりと穴が空いて、猛烈な風が吹きつけていた。
「その時期は毎日、毎日、寝られへんぐらい悩んで、生きてるってどういう意味なんだろう、死ぬときって運命で決まっているんだろう、と深入りして考えてしまって」
足元がいつもふわふわと頼りなく、地面や床を突き抜けて虚空へ落ちてしまいそうな感覚だったかもしれない。底知れぬ悲しみが胸に押し寄せるなかで、山川は自分なりの答えを出す。
「あれこれと考えても何も変わらないから、いまを生きるしかない。いまその瞬間を頑張る、目の前のことをやり遂げる、それがホンマに大事だなと思いました。人生を悔いなく生きたろう、一瞬を生きたろうと」
天理大学を卒業した山川は、地元の大阪に本拠を置くNTTドコモレッドハリケーンズ(現NTTドコモレッドハリケーンズ大阪)に加入した。ところが、リーグワン初年度を終えた22年5月、ドコモはNTTコミュニケーションズシャイニングアークス東京ベイ浦安と再編され、社員選手を中心にディビジョン3から再スタートすることが発表される。
「大阪に家族がいる選手以外は、ディビジョン1だった浦安へ行きたいという希望を出していたんです。でも、行けたのは数人で、僕もダメでした。大阪に残ってドコモで続けるか、移籍するか、メッチャ迷いました。どうせやるなら高いレベルでやりたくて、移籍志望を出しました。出したらもうドコモには戻れないけど、それでもいいと思って。いまを生きるために、プロに転向しようと」
どこからも誘われなかったら、ラグビーを辞めるつもりだった。ドコモで社員として働く覚悟を固めていた。それだけに、東芝ブレイブルーパス東京のトライアウトを受けられることが決まった瞬間は、深い安堵と歓喜に包まれた。
「高校生からブレイブルーパスのラグビーがめっちゃ好きで。FWのチームのイメージがあって、ユハさん(湯原祐希)とかを見ていました。選手たちの熱さが見ていて分かるチームで、自分の性格に合うなと思っていました。練習参加して、もう絶対に入りたいと思いました」
22年8月に東芝ブレイブルーパス東京の一員となった山川は、22-23シーズンの開幕戦で初キャップを獲得した。22年シーズンはドコモで1試合も出られなかった男が、加入早々に東芝ブレイブルーパス東京のユニフォームを着てピッチに立ったのである。
「みんながおめでとうと言ってくれて、試合が終わったあともロッカーでお祝いしてくれて。ホンマにこのチームに入れて良かったな、と思いましたね。前のシーズンは全然出ていない自分がディビジョン1で出ているので、知り合いみんなにびっくりされました。このチームの雰囲気があって、自分の成長がある。たくさんの人のおかげでこんな素敵なチームにいて、こんな素敵なコーチと選手に囲まれて。めちゃくちゃ感謝しています、ホンマに感謝しかないです」
東芝ブレイブルーパス東京のチームカラーにすぐに溶け込めたのは、山川が大学時に経験したあの痛みを、チームのスタッフと選手の多くも経験しているからかもしれない。湯原祐希さんの急逝という悲しみを。
「大切な人が亡くなったときに、僕と同じことを考えたんじゃないかな、と思うんです。だからこのチームの人たちと、深いところでつながれるのかなって。僕以外にもいろんな思いを持っている人がおって、そういう思いが強い人が集まってくるのかなと、入って思いました。僕はこのチームがホンマに大好きです。このチームで日本一になりたい。それまでは引退したくないです」
いまを全力で生きることを誓う山川には、ラグビーに魂を注ぐ理由がもうひとつある。高校でも大学でも周囲には伝えてこなかったが、「自分のことを知ってもらうために」と明かしてくれた。
「妹が発達障害なんです。その妹が、僕の影響でラグビーを好きになってくれて、実家に帰ると笑顔で『お帰り』と言ってくれる。僕がしっかりやらないと、そんだけハマってるラグビーを妹は見られなくなる。それは僕が頑張らなきゃいけない理由です。かなり大きな理由です」
飾り気のない言葉は、聞き手の胸に一直線に突き刺さる。そして、山川をもっと知りたいと思うのではないだろうか。
いまを逞しく生きるこの男のプレーをスタジアムで観たい、と。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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