タウファ・ラトゥ | PR
TAUFA LATU
生年月日 | 1998/4/5 |
---|---|
身長(cm) / 体重(kg) | 183cm / 120kg |
出身地 | Tonga |
星座 | おひつじ座 |
略歴 | マヌレワ高校白鴎大学 |
在籍年数 | 2 |
タウファ・ラトゥの物語
2023年1月7日に行なわれた2022-23シーズンのリーグワン第3節で、タウファ・ラトゥは東芝ブレイブルーパス東京での初キャップを獲得した。静岡ブルーレヴズを退けた一戦に、52分から出場した。
この試合に先駆けて、薫田真広GMが定例会見でラトゥに触れている。その言葉には、はっきりとした期待が込められていた。
「白鷗大学から加入した選手で、22年3月はまだテスト生でポジションはセンターでした。この1年間でフロントローの経験を積んで、今回初めてプロップで東芝のキャップを取る。そこまで成長した選手です」
人生の分岐点は、18歳で訪れた。トンガで生まれ、ニュージーランドでラグビーを学んでいたタウファ少年の心は、ふたつの選択肢の間で揺れ動いた。
「ニュージーランドの高校へ奨学金を受けて入学できることになり、そこでスキルやラグビーの知識を学びました。高校ではスーパーラグビーのチーフスのU17チームなどでプレーしていて、U19のチームから誘われました。選手を育成するプログラムに入り、うまくいけばプロのクラブと契約できると言われました。それとほぼ同じタイミングで、日本の白鷗大学からも誘われたのです」
ニュージーランドでラグビーを続けるか。それとも、日本へ行くか。どちらにも魅力を感じ、どちらにも不安を覚えた。
ラトゥは悩んだ。悩んで、悩んで、とことんまで考えて、日本行きを決意する。
「ホントに難しい決断でした。最終的には、知らないところへ行ってチャレンジしてみようと思い、白鷗大学へ行くことに決めたのです」
白鷗大学ラグビー部は、アイランダーの選手たちを受け入れてきた実績がある。同じトンガ出身の選手も、同時期に在籍していた。ホームシックを長く患うことはなかったものの、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが、ラトゥの人生にも影を落とした。
「大学3年生のときにコロナのパンデミックが始まって、トンガにいる家族が、おばさんと母が立て続けに亡くなったんです。最初におばさんが、その1か月ぐらいあとに母が……。でも、コロナの影響で国境が閉じていたので、帰りたくても帰れない。自分の人生のなかでも、一番苦しい時期でした」
裕福な家庭ではなかった。6人の子どもを育てるために、両親は一生懸命に働いた。08年に父が亡くなってからは、母が親類の助けを受けながら家庭を支えていった。
だからこそ、ラトゥは悲嘆に暮れる日々を過ごすわけにはいかなかった。ラグビーが大好きだった父のために、日本行きを応援してくれた母のために、ラガーマンとして大成していくことを自らの使命とした。
「もっちーさん(採用担当の望月雄太)から声をかけてもらい、東芝ブレイブルーパス東京のトライアウトを受けました。22年の8月に新加入することになったときは、とても嬉しかったです。ただ、リーグワンでプレーできるレベルにまで成長していく道のりは、本当に厳しいものになるだろうなと思っていました。ここからが大変だろうと。トップリーグの頃から何年も試合に出ている人たちと競争していくためには、ホントにハードワークをして、色々なことを学ばなければいけない、という思いがありました」
練習生としてチームに合流すると、気持ちが縮こまってしまう自分がいた。無理もない。関東大学ラグビーリーグ戦グループ2部のチームから、いきなり国内最高レベルのチームに飛び込んだのだ。最初から胸を張っていられたら、むしろ驚きだろう。
「マット・トッドとかリーチ マイケルとか、世界的な選手とすぐそばで練習ができることに、最初はちょっと萎縮していました。でも、そういう経験のある選手からどんどん学んでいこう、というマインドに変わっていきました」
東芝ブレイブルーパス東京加入後は、センターからプロップへポジションを変えた。ただ、大学でもプロップでプレーしたことがあった。
「FWコーチがNECの選手だった猪瀬さんで、大学に入った当初から僕のサイズを考慮して、プロップに転向したほうがいいと言われていました。それまではずっとセンターをやっていたので、最初のうちはジョークかなと思っていたのですが、3年生になって本当にプロップをやるようになりました。実際にやってみると、自分でもできるという感覚を得ることができていました」
1月17日のリーグワン第3節で初キャップを獲得したあとも、メンバー入りを続けている。途中出場でチームを活性化する役割を担っている。
「いまはもう、センターに戻りたいとは思わないですね。センターはゲームの流れや戦術を考えなければいけないポジションですが、プロップはフィジカル的にタフなところ、ボールキャリーやタックルなどがメインになります。まだまだ周りの選手たちのアドバイスを受けながらですが、プロップのほうが自分に合っているかなと思いますね」
リーグワンの試合に出場するラトゥは、心のドアを開けて父に、母に、叔母に、思いを馳せる。そして、勇気と闘志を全身へ行き渡らせるのだ。
「母には僕のことを誇らしく思ってほしかったので、東芝ブレイブルーパス東京の一員として試合に出ている姿を見せたかったです。ラグビーが好きだった父にも、僕の活躍を見届けてほしかったです。両親には本当に感謝を伝えたいですね。人生で何が大事なのかを教えてもらったから、ニュージーランドへ行ってひとりで生活することができた。いまこうして、日本でも生活できています。両親だけでなく叔母にも、いままで自分に関わってくれたすべての人にも、感謝を伝えたいです」
新型コロナウイルスのパンデミックに世界が襲われてから、トンガへの帰国が叶っていない。母と叔母の墓前で手を合わせるその日まで、ラトゥは困難や不安に立ち向かい、希望と勇気を心のなかで育てていく。
「ラグビー選手としてだけでなくオフザフィールドでも、誰からも尊敬されるようになって、墓前に立ちたいんです。センターからプロップへ転向するのは無理だと思った人がいたかもしれないですが、ハードワークし続けて、本気で信じ続けてやれば、どんなことも実現できるんだということを、母たちに報告したいのです」
ヘッドギアを着けて奮闘するラトゥの未来に、幸多からんことを──。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
この試合に先駆けて、薫田真広GMが定例会見でラトゥに触れている。その言葉には、はっきりとした期待が込められていた。
「白鷗大学から加入した選手で、22年3月はまだテスト生でポジションはセンターでした。この1年間でフロントローの経験を積んで、今回初めてプロップで東芝のキャップを取る。そこまで成長した選手です」
人生の分岐点は、18歳で訪れた。トンガで生まれ、ニュージーランドでラグビーを学んでいたタウファ少年の心は、ふたつの選択肢の間で揺れ動いた。
「ニュージーランドの高校へ奨学金を受けて入学できることになり、そこでスキルやラグビーの知識を学びました。高校ではスーパーラグビーのチーフスのU17チームなどでプレーしていて、U19のチームから誘われました。選手を育成するプログラムに入り、うまくいけばプロのクラブと契約できると言われました。それとほぼ同じタイミングで、日本の白鷗大学からも誘われたのです」
ニュージーランドでラグビーを続けるか。それとも、日本へ行くか。どちらにも魅力を感じ、どちらにも不安を覚えた。
ラトゥは悩んだ。悩んで、悩んで、とことんまで考えて、日本行きを決意する。
「ホントに難しい決断でした。最終的には、知らないところへ行ってチャレンジしてみようと思い、白鷗大学へ行くことに決めたのです」
白鷗大学ラグビー部は、アイランダーの選手たちを受け入れてきた実績がある。同じトンガ出身の選手も、同時期に在籍していた。ホームシックを長く患うことはなかったものの、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが、ラトゥの人生にも影を落とした。
「大学3年生のときにコロナのパンデミックが始まって、トンガにいる家族が、おばさんと母が立て続けに亡くなったんです。最初におばさんが、その1か月ぐらいあとに母が……。でも、コロナの影響で国境が閉じていたので、帰りたくても帰れない。自分の人生のなかでも、一番苦しい時期でした」
裕福な家庭ではなかった。6人の子どもを育てるために、両親は一生懸命に働いた。08年に父が亡くなってからは、母が親類の助けを受けながら家庭を支えていった。
だからこそ、ラトゥは悲嘆に暮れる日々を過ごすわけにはいかなかった。ラグビーが大好きだった父のために、日本行きを応援してくれた母のために、ラガーマンとして大成していくことを自らの使命とした。
「もっちーさん(採用担当の望月雄太)から声をかけてもらい、東芝ブレイブルーパス東京のトライアウトを受けました。22年の8月に新加入することになったときは、とても嬉しかったです。ただ、リーグワンでプレーできるレベルにまで成長していく道のりは、本当に厳しいものになるだろうなと思っていました。ここからが大変だろうと。トップリーグの頃から何年も試合に出ている人たちと競争していくためには、ホントにハードワークをして、色々なことを学ばなければいけない、という思いがありました」
練習生としてチームに合流すると、気持ちが縮こまってしまう自分がいた。無理もない。関東大学ラグビーリーグ戦グループ2部のチームから、いきなり国内最高レベルのチームに飛び込んだのだ。最初から胸を張っていられたら、むしろ驚きだろう。
「マット・トッドとかリーチ マイケルとか、世界的な選手とすぐそばで練習ができることに、最初はちょっと萎縮していました。でも、そういう経験のある選手からどんどん学んでいこう、というマインドに変わっていきました」
東芝ブレイブルーパス東京加入後は、センターからプロップへポジションを変えた。ただ、大学でもプロップでプレーしたことがあった。
「FWコーチがNECの選手だった猪瀬さんで、大学に入った当初から僕のサイズを考慮して、プロップに転向したほうがいいと言われていました。それまではずっとセンターをやっていたので、最初のうちはジョークかなと思っていたのですが、3年生になって本当にプロップをやるようになりました。実際にやってみると、自分でもできるという感覚を得ることができていました」
1月17日のリーグワン第3節で初キャップを獲得したあとも、メンバー入りを続けている。途中出場でチームを活性化する役割を担っている。
「いまはもう、センターに戻りたいとは思わないですね。センターはゲームの流れや戦術を考えなければいけないポジションですが、プロップはフィジカル的にタフなところ、ボールキャリーやタックルなどがメインになります。まだまだ周りの選手たちのアドバイスを受けながらですが、プロップのほうが自分に合っているかなと思いますね」
リーグワンの試合に出場するラトゥは、心のドアを開けて父に、母に、叔母に、思いを馳せる。そして、勇気と闘志を全身へ行き渡らせるのだ。
「母には僕のことを誇らしく思ってほしかったので、東芝ブレイブルーパス東京の一員として試合に出ている姿を見せたかったです。ラグビーが好きだった父にも、僕の活躍を見届けてほしかったです。両親には本当に感謝を伝えたいですね。人生で何が大事なのかを教えてもらったから、ニュージーランドへ行ってひとりで生活することができた。いまこうして、日本でも生活できています。両親だけでなく叔母にも、いままで自分に関わってくれたすべての人にも、感謝を伝えたいです」
新型コロナウイルスのパンデミックに世界が襲われてから、トンガへの帰国が叶っていない。母と叔母の墓前で手を合わせるその日まで、ラトゥは困難や不安に立ち向かい、希望と勇気を心のなかで育てていく。
「ラグビー選手としてだけでなくオフザフィールドでも、誰からも尊敬されるようになって、墓前に立ちたいんです。センターからプロップへ転向するのは無理だと思った人がいたかもしれないですが、ハードワークし続けて、本気で信じ続けてやれば、どんなことも実現できるんだということを、母たちに報告したいのです」
ヘッドギアを着けて奮闘するラトゥの未来に、幸多からんことを──。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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