高木 貴裕 | チームディレクター
TAKAHIRO TAKAKI
ニックネーム | TT |
---|---|
生年月日 | 1986/11/7 |
出身地 | 長崎県 |
星座 | さそり座 |
血液型 | A型 |
略歴 | 長崎北高等学校筑波大学 |
代表歴 | - |
在籍年数 | 11 |
高木 貴裕の物語
公式サイトのスタッフのページを開くと、高木貴裕は薫田真広GMの次に紹介されている。「チームディレクター」という立場の重要性が分かるだろう。
「現場のコーチング以外については、ほぼほぼ関わっています。そのなかでメインの仕事は、契約、予算管理、編成になります」
コロナ禍では健康管理も担う。
「当初は毎週のようにPCR検査をやっていましたので、その準備と管理をしていました。現在も抗原検査で同様の仕事をしています。もし何か問題が発生した場合は、保健所やドクター、社内のしかるべき部署に連絡して対応します」
長崎県で生まれ、小学1年からラグビーを始めた。母親にラグビースクールへ連れていってもらったのがきっかけだった。色々なポジションをやりながら、やがてフッカーに落ち着く。チームメイトと勝利を分かち合う喜びに魅せられていった。
中学3年時に九州選抜にセレクトされ、全国大会で優勝した。長崎北高校では3年時には花園のピッチに立ち、ベスト8に食い込む。4年ぶりに県予選を突破したチームで、主将を任された。国体の県選抜でも主将に指名され、準優勝を勝ち取った。
教員を志して、筑波大学を選んだ。ラグビー部に所属し、4年時は主将としてチームを引っ張った。
「大学卒業後の進路を考えたときに、当時のトップリーグのチームから声がかかったらラグビーを続けよう、かからなかったら地元に帰って教員採用試験を受けよう、と思っていました。客観的な自己評価として、トップリーグでできるかどうかのボーダーラインにいると思っていました」
果たして、トップリーグのヤマハ発動機ジュビロからリクルートを受けた。国内最高峰のステージでの挑戦が始まるが、加入1年目の2009年11月にチーム編成の方針が大幅に変更される。親会社の経営環境の悪化により、強化の縮小が発表された。高木は他チームでラグビーを続けることを選び、10年度の新加入選手として東芝ブレイブルーパスの一員となった。
「複数のチームから声をかけていただいたのですが、他のチームから見る東芝ブレイブルーパスは特別な存在でした。強いのはもちろんですが、オリジナリティと結束力がある。さらに、ブレイブルーパスでフッカーのポジションをつかめば、自然と日本代表に選ばれるとの認識がありました。実際に僕が入った当時のフッカーは、全員が日本代表経験者でした。この強いブレイブルーパスで、自分がどこまで成長できるのかチャレンジしよう。それから、高校、大学で日本一になることができなかったので、ブレイブルーパスで日本一になりたいという思いがありました」
ところが、苛烈な運命が待ち受けていた。
「東芝ブレイブルーパスには10年から14年まで在籍しましたが、首を何度もケガしました。最初はしびれや痛みがあり、手術をして復帰をしました。その後、練習中にコンタクトをしたら、首から下がしばらく動かなくなったんです。そのときは5分ぐらいで感覚が戻ってきて、そのまま入院してまた手術をしました」
退院をして再び復帰したところ、また同じ症状に襲われた。首から下が動かなくなってしまったのである。
入院して治療を受けたことで、身体機能を取り戻すことはできた。しかし、ドクターからは「現役を続けないほうがいい」と告げられた。もう一度同じ症状に見舞われたら、今度こそ日常生活に支障をきたすかもしれない。ドクターの見立ては当然だったと言える。
高木自身も恐怖を味わったはずである。それも、一度ならず二度までも。戸惑いや混乱といった感情に、胸を強く締めつけられてもおかしくない。
ところが、高木はラグビーを諦めないのだ。当時の和田賢一監督に「もう1年やらせてください」と直訴した。
「日本一になっていないし、日本代表にも選ばれていない。まだまだやりたかったのですが、和田監督からは『次の人生を考えたほうがいい』と言われました。いまの自分だったら、当時の僕のような選手がいたら続けさせないと思いますが、やはりすぐには切り替えられなかったですね」
14年のシーズン限りで現役を退いた高木は、東芝の社員となる。「ラグビーとの直接的な関わりは終わりだ」と気持ちの区切りをつけ、サラリーマン人生を歩んでいく決意を固めていった。 転機はふいに訪れた。
14年のカレンダーが、残り1枚になった頃だった。
冨岡監督から連絡があった。
「チームに戻って来ないか、と言われまして。当時はまだラグビー部でしたが、一度離れるとチームに戻れないと言いますか、そういう前例がありませんでした。ですので、すごく驚きましたし、セカンドキャリアを始めて1年足らずで、ある程度覚悟を固めていたので、率直に言って迷いました」
そしていま、高木はチームディレクターの職に就いている。
「自分の中ではチャレンジしたい、と思いまして。家族にも相談して、やりたいならやったほうがいいと背中を押してもらいました」
東芝ブレイブルーパス東京には、ラグビー人生を2度救ってもらった。1度目はヤマハから移籍したことと、2度目はスタッフとして呼び戻してもらったことだ。
「そういう経験はなかなかできないし、2度も拾ってもらったことで、チームへのロイヤリティは強い。チームのためになることなら、何でもやりたいという気持ちです」
チームディレクターの高木は、コーチングを除いた様々な場面で調整役となる。意見のぶつかる場面で、判断を下さなければならない立場だ。「葛藤を抱えることもありますが」と言って、高木は言葉をつないだ。
「誰かに嫌われたくないといった感情的なものではなく、この組織をどうしたいのか、自分たちがどうなりたいか。そういうことに重きを置いて判断するのが大事だと、色々な人に言われます。僕自身、割り切って判断すべきところはするようにしています」
大小の決断を絶えず繰り返しながら、高木はチームを支えていく。「自分がこのチームに来てから、まだ優勝していません」と悔しそうな表情を浮かべ、「優勝へ向かってチームをどう持っていくのかが自分のモチベーションです」と、自らを鼓舞するように話すのだ。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
「現場のコーチング以外については、ほぼほぼ関わっています。そのなかでメインの仕事は、契約、予算管理、編成になります」
コロナ禍では健康管理も担う。
「当初は毎週のようにPCR検査をやっていましたので、その準備と管理をしていました。現在も抗原検査で同様の仕事をしています。もし何か問題が発生した場合は、保健所やドクター、社内のしかるべき部署に連絡して対応します」
長崎県で生まれ、小学1年からラグビーを始めた。母親にラグビースクールへ連れていってもらったのがきっかけだった。色々なポジションをやりながら、やがてフッカーに落ち着く。チームメイトと勝利を分かち合う喜びに魅せられていった。
中学3年時に九州選抜にセレクトされ、全国大会で優勝した。長崎北高校では3年時には花園のピッチに立ち、ベスト8に食い込む。4年ぶりに県予選を突破したチームで、主将を任された。国体の県選抜でも主将に指名され、準優勝を勝ち取った。
教員を志して、筑波大学を選んだ。ラグビー部に所属し、4年時は主将としてチームを引っ張った。
「大学卒業後の進路を考えたときに、当時のトップリーグのチームから声がかかったらラグビーを続けよう、かからなかったら地元に帰って教員採用試験を受けよう、と思っていました。客観的な自己評価として、トップリーグでできるかどうかのボーダーラインにいると思っていました」
果たして、トップリーグのヤマハ発動機ジュビロからリクルートを受けた。国内最高峰のステージでの挑戦が始まるが、加入1年目の2009年11月にチーム編成の方針が大幅に変更される。親会社の経営環境の悪化により、強化の縮小が発表された。高木は他チームでラグビーを続けることを選び、10年度の新加入選手として東芝ブレイブルーパスの一員となった。
「複数のチームから声をかけていただいたのですが、他のチームから見る東芝ブレイブルーパスは特別な存在でした。強いのはもちろんですが、オリジナリティと結束力がある。さらに、ブレイブルーパスでフッカーのポジションをつかめば、自然と日本代表に選ばれるとの認識がありました。実際に僕が入った当時のフッカーは、全員が日本代表経験者でした。この強いブレイブルーパスで、自分がどこまで成長できるのかチャレンジしよう。それから、高校、大学で日本一になることができなかったので、ブレイブルーパスで日本一になりたいという思いがありました」
ところが、苛烈な運命が待ち受けていた。
「東芝ブレイブルーパスには10年から14年まで在籍しましたが、首を何度もケガしました。最初はしびれや痛みがあり、手術をして復帰をしました。その後、練習中にコンタクトをしたら、首から下がしばらく動かなくなったんです。そのときは5分ぐらいで感覚が戻ってきて、そのまま入院してまた手術をしました」
退院をして再び復帰したところ、また同じ症状に襲われた。首から下が動かなくなってしまったのである。
入院して治療を受けたことで、身体機能を取り戻すことはできた。しかし、ドクターからは「現役を続けないほうがいい」と告げられた。もう一度同じ症状に見舞われたら、今度こそ日常生活に支障をきたすかもしれない。ドクターの見立ては当然だったと言える。
高木自身も恐怖を味わったはずである。それも、一度ならず二度までも。戸惑いや混乱といった感情に、胸を強く締めつけられてもおかしくない。
ところが、高木はラグビーを諦めないのだ。当時の和田賢一監督に「もう1年やらせてください」と直訴した。
「日本一になっていないし、日本代表にも選ばれていない。まだまだやりたかったのですが、和田監督からは『次の人生を考えたほうがいい』と言われました。いまの自分だったら、当時の僕のような選手がいたら続けさせないと思いますが、やはりすぐには切り替えられなかったですね」
14年のシーズン限りで現役を退いた高木は、東芝の社員となる。「ラグビーとの直接的な関わりは終わりだ」と気持ちの区切りをつけ、サラリーマン人生を歩んでいく決意を固めていった。 転機はふいに訪れた。
14年のカレンダーが、残り1枚になった頃だった。
冨岡監督から連絡があった。
「チームに戻って来ないか、と言われまして。当時はまだラグビー部でしたが、一度離れるとチームに戻れないと言いますか、そういう前例がありませんでした。ですので、すごく驚きましたし、セカンドキャリアを始めて1年足らずで、ある程度覚悟を固めていたので、率直に言って迷いました」
そしていま、高木はチームディレクターの職に就いている。
「自分の中ではチャレンジしたい、と思いまして。家族にも相談して、やりたいならやったほうがいいと背中を押してもらいました」
東芝ブレイブルーパス東京には、ラグビー人生を2度救ってもらった。1度目はヤマハから移籍したことと、2度目はスタッフとして呼び戻してもらったことだ。
「そういう経験はなかなかできないし、2度も拾ってもらったことで、チームへのロイヤリティは強い。チームのためになることなら、何でもやりたいという気持ちです」
チームディレクターの高木は、コーチングを除いた様々な場面で調整役となる。意見のぶつかる場面で、判断を下さなければならない立場だ。「葛藤を抱えることもありますが」と言って、高木は言葉をつないだ。
「誰かに嫌われたくないといった感情的なものではなく、この組織をどうしたいのか、自分たちがどうなりたいか。そういうことに重きを置いて判断するのが大事だと、色々な人に言われます。僕自身、割り切って判断すべきところはするようにしています」
大小の決断を絶えず繰り返しながら、高木はチームを支えていく。「自分がこのチームに来てから、まだ優勝していません」と悔しそうな表情を浮かべ、「優勝へ向かってチームをどう持っていくのかが自分のモチベーションです」と、自らを鼓舞するように話すのだ。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
ファンクラブ
FANCLUB
ホストゲームをより楽しむための
特典がいっぱい!
ファンクラブ会員価格にてチケットを購入できます。