【物語りVol.6】湯原祐希 FWコーチ

 東芝ブレイブルーパス東京にとって、9月29日は特別な一日である。
 2年前のその日に、湯原祐希さんが永逝したからだ。
 19年夏からチームを指揮するトッド・ブラックアダーHCにとって、湯原さんはともに働くコーチングスタッフのひとりだった。記憶の扉を開くと、淀みなく言葉がつながれていく。
「すごく楽しい時間、充実した時間を一緒に過ごしました。英語はそこまで得意ではなかったですが、こういうことを言っているんだなと、理解してくれていたのを覚えています。スマートで頭のいい人で、人間性も素晴らしかった。それから、家族のことを愛していました」
 東芝ブレイブルーパス東京のクラブハウスには、エントランスにスタッフがいるかどうかを示すボードが設置されている。到着したスタッフはマグネットのネームプレートを白色にして、帰宅する際には赤色にする。
 その日最初にやってきたスタッフは、自分のプレートと一緒にもう一枚のプレートを赤から白に変える。
「YUHA」と書かれたプレートを。
 湯原さんのものが、いまも残されているのだ。
 トッドHCが言う。
「このチームに関わる多くの人にとって、ユハ(湯原)は心のなかでモチベーションになっているのでしょう。
 今シーズンからコーチングコーディネーターを務める森田佳寿は、19年の現役引退と同時にアシスタントコーチに就任した。同じタイミングでスタッフ入りしたのが、選手登録を続けながらアシスタントコーチとなった湯原さんだった。
「同じ時期に選手を引退して、コーチを始めました。初めてのコーチングでうまくできないことや要領が悪いことがあったり、選手との関係性はこれでいいのかと悩んだりと、ホントにふたりで苦しみました。僕自身はスタッフとして4年目になりますが、これまでのところコーチを始めて数か月が一番しんどかったと思っていて、湯原さんとはものすごく濃い時間を朝から晩まで一緒に過ごしました」
 記憶のなかで生きる湯原さんは、笑顔を浮かべている。眩しいほどの笑顔を。
「笑顔がすごく可愛らしい人で、いい試合ができたとき、勝ったときはとくにたまらない。ユハさんはコーチングボックスで試合を見ていたので、ベンチにいた僕のことを羨ましがって、『オレも終わった瞬間に選手と一緒に喜びたいんだけど、パソコンを片付けなきゃいけないから、すぐに行けなくて悔しいよ』と、笑顔で話していたのを覚えています」
 湯原さんと同じフッカーの森太志も、偉大なる先輩と濃密な時間を過ごした。心に刻まれた言葉は数多い。
「つねにお手本でしたし、励ましてくれる存在でした。自分がうまくいったときは一番に喜んでくれる、褒めてくれる人でした。大好きだし、尊敬しているし、人生のなかでそんなに現われない存在だと思います」
 思い出のひとつを、記憶のなかから取り出しみる。胸に押し寄せるのは、相手を包み込むような湯原さんの優しさだ。
「1年目にホントに試合に出たくて、ユハさんと練習でスクラムを組むけど、もちろん負けるんですね。そこでどついてしまったのですが、『そういう気持ちでいいんだよ』と言ってくれたのを強烈に覚えていて。いまの自分が若い選手にそういうことをされたら、あんな対応ができるのかなと。ユハさんはメチャメチャ心配性で繊細な人ですが、自分のなかの不安に勝つ強さを持っていましたし、繊細だから周りの気持ちが分かって、誰にでも優しかったんじゃないかな、と想像したりもします。無理して優しく接している感じがなくて、誰に対しても誠実で正直な人でした。だから、誰からも好かれたし、尊敬されたんだと思います」
 東芝ブレイブルーパス東京のグラウンドまで、森は徒歩で通っている。片道30分ほどの時間は、彼にとってかけがえのないものだ。
「その30分ぐらいの時間で、心の中でユハさんと会話をしているんです。ユハさんのことを考えない日はないぐらいで、いつも話をしている感覚、話を聞いてもらっている感覚です。チーム内で発言をするときは、『こういう話したら、ユハさんならダメと言うかもな』と、もう一度考え直すこともあります」

 06年から東芝ブレイブルーパス東京に在籍した湯原さんは、選手としてもコーチとしてもたくさんものをチームに残した。トッドHCは「そうですね、色々なものを残してくれました」と話す。
「彼自身が東芝のDNAと言ってもいいタフさを持っていました。セットピースをすごく愛していました。ラグビーのストラクチャーのなかにも、彼の名前があります。YUHAの名前がついたサインプレーを、私たちはいまも使っています」
 森田は湯原さんの意思を引き継ぐ。胸のなかが静かに熱くなる。
「東芝がもっともっと素晴らしいチームに、応援されるような集団になっていくことを本当に望んでいた人だと、一緒に仕事をしながら日々感じていました。チームをより良くしていくための仕事をして、それが現実となったときに、彼がどれだけ喜ぶのかが目に浮かびます。僕自身はここでコーチとして力を発揮できる限り、ユハさんが喜ぶだろうなということを達成したい。僕個人だけでなくユハさんと親しかった人は、何かしらそういう思いを持っているのかもしれません」
 湯原さんの思いを実現することは、森田自身にとって何ものにも代えがたいやり甲斐だ。ふたりの思いは重なり合っている。
「僕自身はコーチとして成功したいわけですが、何かを成し得たときの喜びはどのチームでも同じ量かと言ったら、決してそうではありません。湯原さんが何かを成し遂げたかった東芝ブレイブルーパス東京で、コーチとして結果を残したときに、他のチームでは決して得られない喜びがあると思っています」
 9月29日はどのように過ごすのだろうか。「今回が2度目ですね」と、森田は自らの言葉を噛み締めた。
「僕は感情的になることはあまりないのですが、9月29日は特別です。去年は28日の夜から色々と考えてしまって、29日の朝にクラブハウスに行って、トレーニングをしていたときも考えてしまって。悲しそうな顔をしていたのか、トッドHCに『ヨシ、大丈夫?』と聞かれました。僕にとっては特別で、感情が揺れる日でした。今年がどうなるのかは、分からないですけれど」
 森田とは対照的に、森は「いつもと変わりません」と言う。
「自分はいつもユハさんを身近に感じているので。日本のラグビーファンの皆さん、ユハさんを応援してくれていた皆さん、ユハさんをきっかけで東芝を好きになった皆さんにも、29日は湯原さんを近くに感じてほしいし、湯原さんを思い出す日になってくれたらいいなと思います」
 薫田真広GMは、9月29日を複雑な心境で迎える。
「彼が亡くなった日は、僕の誕生日なんです。周りはお祝いの言葉をくれるのですが、自分のなかではおめでとう、という日ではなくなりました」
 2年前の9月29日をきっかけに、薫田GMはあごひげを伸ばすようになった。湯原さんにならったものだ。
「もう一度日本一になったときには、剃ろうと思っています」

 湯原さんを思う彼らの心には、たまらなく熱いものがこみあげている。ひだまりのような笑顔を思い返して、懐かしい思いが胸を満たす。とこしえの感謝をささげる。
 そして、彼らのなかで決意が立ち上がる。
 在籍12年目を迎える森の声には、太い芯が通った。
「僕たちはリーグワンで優勝する力は持っていて、優勝できると信じています。その力をプレーオフに進出した大事な試合で100パーセント発揮できる準備をしていこうと、個人的には思っています。チームが100%のパフォーマンスを出し切るために、自分にできることをユハさんと相談しながら、一日一日やっていこうと思っています」
 湯原さんの見せてくれた情熱を、献身性を、強さを、優しさを、しっかりと胸に抱きしめて。東芝ブレイブルーパス東京の選手とスタッフは、来る新シーズンへ向かっていく。(ライター:戸塚 啓)

■関連情報
湯原祐希追悼ページ
 現役時代の写真・動画・出場記録などを公開しています


湯原 祐希(Yuhara Hiroki)
ポジション:HO(フッカー)/ FWコーチ
在籍期間:2006 – 2020
経歴:流通経済大学付属柏高等学校 → 流通経済大学 → 東芝

日本代表Cap          :22
トップリーグCap :120
東芝Cap(※)           :154試合
通算トライ             :33トライ
※:TLリーグのリーグ戦以外に、プレーオフトーナメントや順位決定戦の試合出場数も合わせた数


■東芝ブレイブルーパス東京【物語り】
東芝ブレイブルーパス東京では、ファンの皆さまにクラブのことをより知っていただくために、今シーズンからライターの戸塚啓さんにご協力いただき、様々な物語を発信しています。
【物語りVol.1】 チームスピリット「猛勇狼士」に込めた想い
【物語りVol.2】荒岡義和 「ただただ、悔しかった」
【物語りVol.3】それぞれの立場でハードワークを
【物語りVol.4】 ワーナー・ディアンズ「準備してきたものをやるだけ」
【物語りVol.5】 リーチ マイケル「勝つことばかり考えています」

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